! 小磯健一(兄)×小磯健二(弟)という設定の話 !



雨の先触れ
子守唄
半熟たまごコロッケカレー


web graphic by Night on the Planet

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 雨の先触れ



 兄は雨の先触れをつかむのがうまい人だった。兄が、「健二、洗濯物取り込むか」と、のんびりした声で言いながら立ち上がると、それから必ず1時間前後で雨が降ったように思う。だから小さい頃、自分は兄のことを魔法使いだと思っていた。5年だか6年だか、へたするともっと前のことだ。つかみどころのない、まばたきとまばたきの間に、どこかへ消えていってしまうような記憶。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 子守唄



 兄と自分とは、きっちり10歳離れている。僕が産まれたあとに、父と母の関係はだんだん悪くなっていき、それぞれが仕事に安らぎを見つけるようになったので、僕に言葉を教え、公園に連れて行き、夕ごはんを食べさせて風呂に入れ、寝かしつけたのは、主に兄ということになる。子守唄と聞いて浮かんでくるのは、いつも兄の声だ。布団の上から背中を叩く手のリズムと、顔の近くに上ってくる二人ぶんのぽかぽかした体温を、ふと思い出す夜がある。今の僕には、パソコンの画面からうすく漏れる光と、冷たいシーツしかないので。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 半熟たまごコロッケカレー



 一度だけ、声を荒げて怒鳴られたことがある。兄は、自分とは違い、何でもバランスよくできて(文武両道の人だった)、人望も厚く、いつも朗らかに笑っている人だったので、逆にその時のことを、細かいところまでよく覚えている。
 小学二年生の秋ごろだった。今思えばテスト期間だったのか、兄は自分より先にうちにいた。サッカー部に所属していた兄は、自分よりあとに帰ってくるのがふつうだったので、鍵を開けた玄関口で、リビングのあかりを見つけて、すごく嬉しかった記憶がある。
「おかえり」
「イチにい!見て」
 ただいまも言わずに、ランドセルからテストをいそいで引っ張り出して、制服を着替えないまま洗濯物を畳んでいた兄の目の前に広げた。慌てたので、はじのところが教科書にひっかかって、少しやぶけてしまった。
「お、100点だ!すごいなー健二!」
「今日カレー?」
「だな。コロッケ買ってきてるから、コロッケカレーにしよう」
「すごい!」
 テストで100点を取ると、兄は絶対に夕ごはんをカレーにしてくれた。子供のころの自分は今よりもっと偏食がちで、どんなに兄が工夫してくれても、カレーの時以外に肉を三口以上食べられなかったから、ふたりともが嬉しいメニューだった。たとえ100点を取れるのが算数のテストのときだけでも、自分のことのように喜んでくれた。
「父さんと母さんが帰ってきたら見せような」
 兄はにこにことそう言って、僕の手からテストを取ろうとした。だけどその手は空滑りして、兄が目を瞬く。僕がテストを取り返して、背中に隠したからだ。
「いやだ」
「健二?」
「父さんと、母さんには、見せない」
 僕が顔を怖くすると、兄はおどけるように手を広げて見せた。それが機嫌を取られているみたいで、なんだか嫌だった。
「どうした?なんかあったのか」
「父さんと母さんなんて、いなくていい。いつもいないから、もとからいないのといっしょだ」
 兄の顔色がさっと変わった。空気がまったく違うものになったのがわかって、それだけでもう泣きそうにまぶたが熱かった。
 その頃の両親は、自分が寝てから帰ってきて、自分が起きる前に出て行き、会社に泊まりこみもしょっちゅう、顔を合わせない日が続くのは当たり前で、ごくたまにうちに二人が揃うと、部屋の隅々までがしんと冷え切って暗く、兄と出かけるか、佐久間のうちに遊びにいくかしなければ、僕は押し潰されてしまいそうだった。兄も佐久間も用があるときは、部屋にこもって、算数のドリルを最初から何回もやった。そうやって、兄が帰ってくるまで過ごした。
 正直に言うと、親のことは好きじゃなかった。兄のほうが何倍だって好きで、兄がいないときに親といるのは苦しかった。そんな親に、100点のテストは見せたくなかった。0点を見せるほうがずっとましだった。あの人たちに、兄と自分ふたりの嬉しいことを、教えることなんてないと思ったから。
「何でそんなこというんだ」
 兄がめずらしく、冗談じゃない怖い顔をするので、とうとう涙がこぼれた。だけど、言ってしまいたかった。長いこと、胸につっかえていたことだった。
「僕はイチにいだけいればいい」
「馬鹿!」
 聞いたことのない大声に飛び上がって、叩かれたみたいに身体が縮んだ。泣き声を堪えて、唇を噛むと、目の前が膨れ上がった涙の粒でぼやけて、兄の顔が見えなくなった。手の中のテストは、握り締めたのと、手のひらの汗のせいで、くしゃくしゃになってしまっていた。
 そのまま、どのくらいたったのかわからないあとで、兄は長くて深いため息を吐いた。そしてとても小さい声で、「馬鹿だなあ」と言った。その、聞こえるか聞こえないかの、兄の声が泣いているような気がして、僕はびっくりしてしゃくりあげるのをやめた。兄が自分の前で泣いたことは一度もなかったから、本当にびっくりしたのだった。
 ばっと兄の顔を見ると、兄はもちろん泣いていなくて、伸びてきた学生服の袖が、僕の頬の涙のあとを何度かぬぐった。
「ごめんな。でかい声出して」
 兄が謝る必要はないと思って、一生けんめい頭を横に振った。
「大丈夫。ごめんなさい」
「だけどもうあんなこと言うな。兄ちゃんは悲しい」
「うん。ごめんなさい」
 間違ったことを言ったつもりはないけれど、兄が悲しむなら、口に出すのはやめよう、と思った。あの時の自分は、兄が世界のほとんどだったから、兄に嫌われたら、兄がいなくなったら、と思うだけで、言いようのない不安に襲われることがあった。
「よし。カレー作ろう。で、コロッケと、あと半熟たまごも載せよう。好きだろ?」
「好き」
「じゃあ健二は風呂洗ってきて」
 ぽんぽんと僕の頭を撫でた兄は、もういつもどおりの笑顔だった。眉が困ったように下がる笑い方をする人だった。僕も、できるだけいつもどおりに、うん、と頷いて、風呂場に走った。心臓がまだ少しだけ早く打っていた。
 その日はがんばって一回おかわりをして、そのせいで寝るときちょっと苦しかったのも、覚えていることのうちのひとつだ。



(110412-)