「今年のお前の誕生日は何をやろうか」
 虎徹さんが、突然ベッドで言った。僕はりんごをむく手をはたと止め、声のほうを見た。
 窓の外は厚みのあるグレーの雲に覆われていた。もう冬が近いのだったが、部屋の中はほどよく暖められ、気の利いた家具があるべき場所にぴったりと配置されて、穏やかに居心地がよかった。
「虎徹さん、おはようございます。何かほしいものは?」
「水をすこし」
 サイドテーブルの水差しからクリスタルガラスのグラスに水を注いで、虎徹さんに手渡すと、彼はまるで上等のワインを飲むみたいに、おいしそうに喉を鳴らして中身を干した。
「悪いな。それよりお前の誕生日だ、バニー。お前、何がほしい?」
 寝てる間にいろいろ考えたんだ、そりゃもう、いろいろ。でも思いつかない。だから起きたんだ……。
 うそだか本当だかわからないことを飄々と言いつのる口元の水あとを、僕は手を伸ばして、親指でぬぐってやる。それからりんごの皮むきを再開する。
「一通りもらいましたからね。最初はあの、ばかばかしいうさぎの抱きまくら」
「ばかばかしいとか言うんじゃないよ。それにお前、ずいぶん長いことあいつといっしょに寝てたじゃねえか」
「そうでしたっけ?」
 すまして返したが、虎徹さんが目を細めてくすくす笑うので、僕もつられて笑ってしまい、それが事実だと認めざるを得なかった。彼は笑うと目じりにくしゃくしゃの皺が寄るようになり、それは加齢のひとことで片付けるにしてはひどくセクシーだと思う。肌にぴんと張りがあったときより、ずっと素敵だ。
「次の年のマフラー、あれはよかった。軽くて暖かくて、実用的で」
「かなり予算オーバーだったな。だけどお前に似合うって思ったら、買わずにいられなかった」
 きれいなオリーブグリーンの色みを、虎徹さんは僕の目の色に合うと言ったが、僕のほうは虎徹さんのテーマカラーを連想して、それだけで嬉しく思った。
「みんなでパーティをしてくれて。ファイヤーエンブレムさんのお店を貸しきったんでしたっけ」
「お遊戯会みたいな紙のくさりと花かざり作ってな」
 クラスの友達を呼んでゲームをして、一番盛り上がったところでママのケーキが登場するような、ステレオティピカルなバースデーパーティをした覚えがないという話を、何の気なしにしたのだった。それを切なく思ったらしい同僚たちが、誕生会を開いてくれた。日程の調整や準備なんかにまめに動いたのは、驚くことにブルーローズ嬢だったらしい。
「アントニオのプレゼントが刺繍入りのハンカチで。あれ最高だったな、あいつに似合わなくて」
「でも丁寧な細工だった。イニシャルのかざり縫い、まだ褒められますよ」
 それぞれがプレゼントを選んで持ち寄り、テーブルにはこどもが好きな食べ物をずらりと並べて、なのに飲み物はアルコールで。途中でPDAからコールがかかったのは、わかりきってお約束の笑い話だ。その日は出動している間も、血がシャンパンになったみたいに弾けていた。
「それから、いつかくれた手ぶくろ。キッドのやつ」
「あったかくてよかっただろ」
 ブルーグレーの仔羊革で、内側にカシミアを張った手ぶくろは、あつらえたように僕の手を暖めた。手足の末端が冷えがちだから、ちょうどいいだろうと言って。正確な時期は覚えていないが、僕の手の温度を知っていたということは、付き合ってからのプレゼントだろう。
 まだ若かった僕は、いつでも彼に直接触れたくてうずうずしていて、あまり使わなかったように思う。もったいないことをした。近頃は上の孫娘が編んでくれたミトンばかりだけれど、散歩のときにでも久々に着けてみようと思う。たぶんクロゼットにしまってあるはずだ。
 抱きまくらも、マフラーも、手ぶくろももらった。万年筆も、生まれ年のワインも。ベルト、タイタック。誕生日前に喧嘩をしたときは、アダルトグッズの詰め合わせ(高校生のするいたずらみたいだ、まったく)。変わったところだと、ぶどうの木のオーナー権。一度なんかは女の子にするように、年齢の数だけのばらの花だった。ドライフラワーにして、キッチンの壁に吊るしてある。誕生石のはまったピンキーリングをもらった時は、あからさまにそわそわして、落ち着けと笑われた。加齢につれて指が痩せたから、何度か直しにも出して、今も僕の小指に収まっている。
「りんご、食べますか」
 指輪を見ていると、ふいに目が潤んできて、僕はそれをごまかすために、突然壁紙の花柄模様が気になったふりをしなければならなかった。台座にこまかな傷が入ってしまっている指輪は、それ自体が虎徹さんと過ごした時間の証明だった。
 ひとくちに切ったりんごを、自分でもかじりながら聞くと、虎徹さんは静かに首を振る。
「いや。もう少し寝るよ」
「じゃあ夕飯には起こしますね」
 うわがけの位置を直して、額にキスをひとつ。子犬がするような、触れるだけの。
 虎徹さんが寝ている時間は日に日に長くなる。この夏大きな病気で手術をして以来、一日のほとんどをベッドで過ごしているから、僕もほとんど寝室(この状況になってから、ベッドをわけたのが少しさみしい)で、雑誌を読んだり、メールの返事を書いたり、虎徹さんの寝顔を飽きもせず眺めたりしている。
 だけど今日は孫たちとタルトタタンを焼く予定で、そのためにりんごをむいていたのだった。もうすぐ遊びにくる頃あいだから、オーブンを暖めておくことにする。
「今年は直接渡してやれるかなあ」
 虎徹さんが小さくつぶやくのが聞こえたが、聞かなかったことにしてしずかに部屋を出た。
 あなたはものに限らず、気の置けない同僚も、妹のようにかわいい娘も、その子が産んだ年々育っていく孫、母や兄のような人たちも、たくさんの関係性を僕にくれた。本当なら僕がついぞ、虎徹さんと出会わなければきっと一生、腕に抱くことのなかっただろう温度。家族でいるのは、ときどき涙が出るくらい切なくて、幸福に重みがあるのだと知った。ただパートナーとしてのつながりよりも、もしかしたらずっと。なにものにも代えられない、得がたく、貴いもの。
 ねえ虎徹さん、僕の両腕はもういっぱいだから、しばらくはプレゼントなんかなくたって大丈夫です。だからゆっくりお眠りなさい。だってこんなにも持っているのに、まだ欲しがったら嘘みたいでしょう。



(111114)