人気のない夜の公園で、酔いに任せたティーンエイジャーみたいなみじかいキスをしたら、冷えた空気にまじって、花のにおいがした。深みのある甘さは香水のそれではなく、自然のものらしいみずみずしさで滴っている。虎徹が鼻をひくつかせていると、バーナビーは小さくのどの奥で笑った。 「動物みたいだ。どうしたんですか」 「いや、きんもくせいのにおいがするなと思ってさ」 「きんもくせい」 唇だけで繰り返して、小指の先くらい眉を寄せる。そのしぐさで知らないのだとわかって、虎徹は芳香の出どころを首をめぐらせて探した。 「これだよ、この花」 みなもとはバーナビーの後ろにあった。いっそ弱弱しいとも思えるほそい木幹と、こい色の葉の間にひと群れで咲くだいだい色。指のさす先を、みどりの視線が辿る。夜の闇の中、バーナビーの瞳はキスの名残で潤んで、うすく発光しているようだった。 「へえ」 「見たことない?」 「ありますけど、正直あまり、気にしたことなかったです。花の名前とか」 知識とリアルがはじめて結びついたというところか。検索エンジンみたいな情報の溜めかたをしているくせに、虎徹のまわりでは常識の範囲にくくられる事柄にうとい、悪く言えば世間知らずな部分が、バーナビーにはあった。育った環境と、両親の仇にのみひたすらに向かったベクトルがそうさせたのだろう。 小さなオレンジの花群は、秋の訪れのしるしだ。香りはふいに日常に紛れこみ、現れと同じように突然掻き消えて、冬を呼ぶ。そのはかなさ、柔らかさを受け止めることなくこれまで生きてきた青年を、虎徹は愛おしいと思った。 「虎徹さん、いろいろ知ってますよね」 思索に沈んでいた虎徹を引き戻すように、バーナビーは言った。純なまなざしがまっすぐ虎徹を捉えていて、正面から目を合わせるのはこころもち恥ずかしい。いったん懐いてからというもの、感情を隠さないようになったバーナビーは、以前の作り物めいた硬質さが失せ、迸るような生気に溢れている。 「そっかあ? バニーちゃんのほうが頭いいと思うけどな」 「そういうことじゃない。今日だって」 あれか、と行き当たったのは、昼間のことだ。隣席から不規則な呼吸音が聞こえて、始末書と格闘していたパソコン画面から目を上げると、バーナビーが口元を押さえて、不愉快そうに目を閉じていた。 ――どったの。 ――ただの、しゃっ、くりで、す。大丈夫。 話している途中にも切れ切れにひきつれる。息を呑むそのリズムといい、苦しげに眉根を寄せた表情といい、閨事を思い出させるに足る材料は揃っていたけれど、昼日中のオフィスで盛りがつくほど若くもない。しばらく息を止めてみたり、冷めたコーヒーを啜ってみたり、それでもあんまり辛そうにしているので、かわいそうになって声をかける。 ――それ、くしゃみしたら止まるぞ。 ――こんなと、きに冗談やめ、ってくださ、い。 ――ホントだって。俺いつもそうやって止めてるから。 疑い深い視線が向けられたが、虎徹が真顔で見返すと、バーナビーも真顔になった。確かめてきますと席を立つ。しばらくの後、すっきりした顔で帰ってきたバーナビーの呼吸は普段どおりに戻っていたのだった。よかったなあと言うと、ありがとうございますと生真面目に頭を下げられる。 ハンサムがくしゃみをするためにどうやったものやら。想像するとまだおかしいが、表に出すとわかりやすく機嫌が悪くなるのでなんとか押し込めた。 「そんくらいで尊敬してもらえるなら長生きしとくもんだな」 「はは」 冗談めかして肩をすくめると、バーナビーは歯を見せて笑った。それから首をめぐらせて、花木に目をやる。 「きれいですね」 きんもくせい。インプットするみたいに名前を繰り返して、しろい指先で触れた。ほろほろと花弁が落ち、バーナビーの肩に降りかかる。その横顔が、あんまりこどものように幼いから、思わず抱き寄せた。 「虎徹さん」 「ん、ちょっとだけ」 咎めてシャツの袖を引くのを宥めるように、うなじを撫でた。いつも帰り道に通り抜けるから、人気のほとんどないことは知っている。ただ万が一のことを見越して、大木の幹にバーナビーを押し付け、覆いかぶさるようにした。夜目にも目立つ金糸の髪には、自分のハンチングをかぶせて隠してしまう。 上唇をついばむように挟み、頬のラインを下から手のひらでなぞる。いつ触れても引っかかりのない、すべらかな肌だ。唇の合わせを、紅を引くように舌先で形どってやると、バーナビーは猫のするように目を細めて、誘いに応え、うすく唇を開けた。無遠慮に舌を割り込ませて、歯のつつましく揃った様子を楽しむように何度も往復していると、バーナビーのほうが焦れたように舌を伸ばしてくる。 彼のするにまかせていると、一瞬迷いを見せてから、舌の付け根に潜るように探ってきた。虎徹のあごを支えるように手をやり、顔の角度を変えて、より深く。ん、ふ、と吐息と喘ぎのないまぜになった声をあげ、夢中になって貪るから、わざと引くと、むきになったように追い縋ってくる。 「……上手くなったな?」 最初はされるだけでいっぱいいっぱいだったくせに、と親指でぬれた唇を拭ってやりながらからかうと、まだ息を弾ませたまま笑ってみせる。 「先生がいいからですかね」 「それはそれは」 くちづけの仕方、肌への触れ方、すべて虎徹の好きなやりかたを、バーナビーは習得していた。その素直さは、成長する植物を虎徹に思い起こさせる。与えられたものをそのまま受け取って、吸収し、伸びゆく。 バーナビーから向けられる情は、呪いじみていると思うことがある。4歳で止まってしまった時計のねじをまいたのは彼自身で、虎徹とのかかわりはきっかけにしかすぎない。勘違いだよとなんべんも言った。それでもバーナビーは、どこまでも直情に虎徹を欲しがる。いっそ切ないほど慕う子を、誰が跳ねのけられるだろう。彼が望むのなら、なにもかも分け与えてやりたいと思うまでに時間はさほどいらなかった。美しいものだけ見せて、どろどろに甘やかして、溶けてしまうくらいやさしくしてやりたい。 鮮やかなグリーンの双眸が、紛れもない情欲そのものに揺れて濡れ光る。もっと教えてください、と耳に吹き込むように、吐息だけで囁く。それでは教室を変えましょう。そろそろ花の香りのまじりけなしに、バーナビーの肌のにおいだけ味わっていたかった。 (111016)
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