朝早く電話を受けて自宅を訪ねると、虎徹さんがトラになっていた。テレビのなかのサバンナで、木の陰に背を低くしているのがふさわしい、立派なトラだ。
――緊急なんだよ、ほんとに。バニーちゃん来てくれって、いますぐさあ。
――いやですよ。なんです、強盗に人質にとられでもしてるんですか?
――違うって。あー、なんていうか……電話じゃあ説明しにくいんだよ、頼むよバニー。一生のお願いだから。
 焦った電話の声や、カギはかかってないから、というインターフォン越しの返事が、妙に荒い呼気まじりなので風邪でもひいたかと思っていたが、マット加工のドアの向こうには、しおらしくお座りのポーズをとったおおきなトラがいた。なあ俺、トラになっちまったよお、バニーちゃん。トラは聞きなじみのある声で情けなく吼え、僕の心拍数は通常の速さに戻るまでしばらくの時間を要した。
「なー、どう、びっくりした? バニーちゃん。電話かけんの大変だったんだぜ」
「びっくりもしますよ」
 こんな状況なのに威張りくさった顔をするので、冷たく言い捨てたが、声は思ったより弱弱しく響いて、床に落ちる。虎徹さん(トラ)の抜けた毛のとなりに。床の上で、虎徹さん(トラ)の毛は、照明を跳ね返してぴかりと光っている。
 ひとまず、触ってみる。毛の一本一本は太く、すべらかそうな見た目とは違い、ちくちくと掌を押し返す。意外だ。毛並みにそってなでると気持ちがいい。鼻筋から眉間をなで上げて、耳のつけ根をかりかり引っかくと、虎徹さん(トラ)はゴールドの目を細めて僕の手に鼻面を摺り寄せた。するどい尖りかたをした牙が、開いた口の隙間からちらりと覗くが、目の色は虎徹さん(ヒト)と同じなので、僕は少し安心する。
「NEXT能力ですかね。昨日捕まえた犯人の、とか」
「そう考えるのが妥当だろうけどよ、バニーちゃんだって触ったろ、あいつ」
「まあ触りましたけど、1日1回限定で変化させられるとか、制限があるのかもしれませんよ」
「ほかのやつらも変わってたりすんのかな、なんかに」
「そうだったら連絡が来るんじゃないですか」
 とりあえず出勤することになった。虎徹さん(トラ)は、クルマの後部座席をフラットに倒して、なんとか乗せることができた。マンション周りに誰もいないことを確認して、おおいそぎで。通報されでもしたらたまらない。虎徹さん(トラ)はどう見たって狭そうな座席に収まり、喉奥でちいさく唸ったが、シートについた毛の掃除は大変なのでおたがいさまだ。トラだととなりにも座れねえんだなあ、と虎徹さん(トラ)は曇天を背景にぐるぐる笑った。参ったねえ。


 案の定ほかのヒーローは人間の姿をしていて、医者は弱り顔で原因不明を告知した。ここ数週間で接触した犯罪者に、そういう能力はないようだし、解決法もわからないということだ。職場のパソコンから、国のデータベースにアクセスしてみたが、もう亡くなった人から現在登録されている人までしらみつぶしに探しても、人を動物の姿に変えるという能力は見つからなかった。あるいは折紙先輩の擬態能力の亜種みたいなものだとか、集団催眠をかける力だとかの可能性もあったけれど、それはこれから調査していくとのことだった。
 虎徹さん(トラ)はしばらく休みを取ることになった。取材の予定が狂うだの、視聴率がどうだのと四方から言われたが、仕方がない。だってトラはヒーロースーツを着ることができない。実家にも帰れない。ご家族に、トラになってしまった姿を見せるわけにはいかないからと言う。うちで過ごしてもらうことにしたのは当然の流れだろう。トラは買い物にもいけないし、公共料金の振込みもできない。自分ひとりでは身体を洗うこともできない。虎徹さん(トラ)がいつまでトラのままいるのか知らないが、その間の身の回りのことをやる人間が必要で、それなら自分が引き受けたかった。だって恋人だから。たとえ相手がトラの姿をしていても。
「どうしたもんかなあ。変に心配かけたくねえしなあ」
 虎徹さん(トラ)は、鼻を鳴らして、組んだ前脚の間に顔をうずめる。鼻先に、水を入れたボウルをおいてやると、ぶふうう、と長い鼻息が手にかかり、前髪を揺らしてくすぐったい。
「ねえ、今日の夜、なにか食べたいものはありますか」
 牛肉とか、豚肉とか、ラムとかささみとか。聞くと、奥歯まで見せて口を開け、目を細める。笑っているのだろう。
「ほんとのトラじゃねえんだからさ。バニーちゃんと同じもんでいいよ」
「でもネコ科は玉ねぎとかチョコレートとか、だめなものがあるんでしょう」
「おれはいま、トラなのかなあ。ヒトなのかな。それによるよな」
 虎徹さん(トラ)はしずかに呟いた。ごく平坦な口調だったが、僕の背筋はぎくりと強ばった。僕もちょうど、そのことを考えていたので。
 結局パスタをゆでて、レトルトのソースをかけたものが夕飯になった。身体のサイズが変わっているので、どのくらいで満腹になるのかわからない。ひとまず、うちにあるいちばん大きな皿に山盛り出してやることにした。自分の分も作ると、ほとんど満杯だったパスタびんが一気に空になった。脳内の買出しメモを更新しながらエプロンをはずす。パスタ・虎徹さん(トラ)の身体の下に敷くラグ・毛皮用に上等の猪毛ブラシ。
 一応ローテーブルの上に皿を出してみたが、食べにくいというので、床に置いた。行儀が悪いという考えがちらりと頭を通り過ぎたが、トラになって慣れないまに、それを咎めるのもどうかと思った。
「どうですか」
「うまいよ。けど熱いな」
 虎徹さん(トラ)は、口のなかを冷やすため、水のボウルに舌を突っ込んだ。ぴちゃぴちゃと水音が聞こえる。舌で水の表面を撫でているのだ。それはベッドを思い起こさせ、ヒーリング音楽とは程遠いものだったが、つとめて冷静に言う。
「床、びしょびしょですよ」
「うわ、本当だ。悪いな、バニーちゃん」
 虎徹さん(トラ)は身を起こして肉厚の掌で床をぬぐった。ものをこぼしたとき、虎徹さん(ヒト)も、とっさに服でふき取ろうとする。それを見て、ああこの人はいまトラなんだという事実が、すとんと胸に落ちてきた。ふっくらとした肉球は水分を吸い取るのに向いていなくて、汚れをただいたずらに広げるだけだった。


 虎徹さん(トラ)は昼まはごおごおと鼾をかいて日向で寝ていて、夜になると瞳孔がらんらんと大きくひろがり、やおら元気になる。バディが休業中とはいえ、僕のほうはオフィスタイムは会社に詰めていなければいけないので、都合がいい。僕が帰宅するころあいには、虎徹さん(トラ)は夕ぐれのシュテルンビルトの街をガラス窓から見おろしていて、お前の帰ってくるのが見えたよ、などとぴかぴかした歯をうすくむき出して言う。
 ときどき耳とヒゲをぴくぴくとさせて、東の方が騒がしいなあ、などと言うこともある。そういうときは、決まって数分以内に、PDAからコールがかかる。能力を持った押し込み強盗がイーストゴールドの宝石店から逃走中、至急出動準備を。
 行ってきます、虎徹さん。行ってらっしゃい、バニーちゃん。


「虎徹さん」
「なに、バニー」
 照明を消してしまったベッドルーム、となりの虎徹さん(トラ)の目が開いた。暗やみの中、こちらを見やる金色の一対がきろきろと光って、鬼火じみている。
 虎徹さん(トラ)がせま苦しくないように、ベッドをひとつ大きいサイズに買いかえたので、枕を並べても虎徹さん(トラ)は身体をのばして眠れる。トラは夜行性だけど、僕の生活サイクルにできるだけ合わせてくれているのだった。それに狩りをする必要がないせいか、いつまででも眠れる気がするとこぼしていた。
「トラでいるってどんな感じですか」
「どんなって、なあ。脈がヒトだったときより大きく聞こえる気がするかな、それから……ああ、説明できねえなあ。バニーちゃんもいっぺんなってみたら?」
 なれるものならと言いたいが、実際口にはしない。虎徹さん(トラ)の、憐れなほど人に戻りたいと切望していることをよくよく知っている。僕が出勤するたび目を細めてドアを見つめ、ヒーローテレビを流したまま背を丸め、一度なんかうちに帰ってみれば、僕のブーツの1足をぼろぼろに噛みちぎってしまっていた。ヒトだったころは、正しいやりかたで振るっていた牙がうずくのだろう。ごめんなあ、バニーちゃん。こんなことするつもりじゃなかったんだ。なのに、気がついたらこうなってたんだよ。ごめんなあ。尾っぽをうしろ脚の間に完全に隠して、あんなふうに寂しくうなだれる姿なんて見たくなかったのに。
「なんで俺、トラになんかなっちまったんだろうな」
 原因の調査は難航していた。なぜなのかも、いつ戻れるかも、まだわからないのだという。会社の上層部が焦れてきた。いまはロイズさんが壁になってくれているが、いつ限界が来るのか。怪しいものだ。だって虎徹さんはどこからどうみてもトラだ。トラは街を救えない。
 このまえ虎徹さん(トラ)の食事を生の肉に変えた。そのほうが腹にたまるということだから。今じゃうちの冷凍庫は肉がぎっしり詰まっている。虎徹さん(トラ)が、ゆっくりと人間の日常から剥離していく。仕方ない。だって彼はトラだから。
「おいおい、どうしたの、バニーちゃん」
 こどもみたいに泣くんじゃないよ。僕がさめざめと泣きだすと、虎徹さん(トラ)は慌てた声を出し、肉厚の舌で僕の頬をべろりとなめる。その表面はざらりとしている。僕の涙は唾液と混ざってぬるぬる肌を広がって、シーツを汚した。なま温かい息がねっとりと首筋にかかる。はあ、はあ、はあ、荒い呼吸音がメトロノームのように規則正しく耳を打つ。虎徹さん(トラ)の牙が僕の動脈に突き刺さる想像をする。そうして、温かい血で毛皮を濡らし、その甘さに我を忘れて、僕のことを頭からばりばり食らってくれたらいいのに。
 もしくは、いっそ、なれるものなら。なれるものなら自分もトラになりたい。トラになってそして、身を寄せあって生きていきたい。この街から遠くはなれたどこかのジャングルで、あるいは動物園の灰色をしたおりの中、2匹きりで、体温を分け合って。トラの体温は高く、くっついていると汗が出るから、僕の部屋はいま冷房が効きすぎていつだってま冬のようなのだ。
 なれるものなら、なれるものなら。




(110919)