キース・グッドマンは誰かが同じ空間にいるとき、先に眠れないほうだった。相手が友人であれ、恋人であれ、家族であれ。男であれ、女であれ。同僚のイワン・カレリンと、かけ布団を共有することになってからも、それはおなじで、キースは、かよわい渡り鳥の骨格をもった青年が、穏やかな眠りにつくのをきっちり見届けてから、自身のまぶたを閉じる。


 イワンはセックスのあと、すぐに眠らない。ふにゃふにゃと回らない口で、いろいろなことを呟いている。仕事のこととか、封切り近い映画のこととか、あしたの昼ごはんのこと。キースは、それを音楽みたいだと思う。ゼリービーンズみたいに柔らかな楕円形で、さまざまにやわらかい色をしている。口にしてみたことはない。


 キースは部屋にいるときだけ、イワンを違う方法で呼ぶ。そうして欲しいとイワンが言ったからだ。「あの、これから、ふたりだけでいる時は、ヴァーニャと呼んでもらえませんか」。きまじめな顔つきで、けれど耳から首までまっ赤にして、それはもう真剣に。全身恥ずかしそうに縮こまっているのに、目だけが、サンタクロースからのプレゼントを待つこどもみたいにきらきらしていた。
 キースは、イワンの手を取って、同じぐらい真剣に頷いて、「そうしよう」と言った。まるで誓いの言葉みたいな厳かさで。だからイワンは、ふたりでいる時だけ、ヴァーニャだ。外で呼んでしまったことは、多分、まだない。きっとイワンが嫌がるから。実直なようで、本当は抜けたところが多いと言われるから、自分でも珍しいことだと思う。
 ある時、ふとそう言ったら、イワンはやっぱり耳から首まで真っ赤にして、眉をカタっと下げて、笑いたいのか、困っているのかわからないような顔をした。
 イワンも、キースのことを、彼の母国のやり方で呼ぶ。キースが、イワンの愛称がどこから来たものなのか、ふしぎに思ったのがきっかけだ。「名前の最初か、途中の音を取って、男の人はニャ、かリャ、をつけます」。彼の口から出る自分の名前は、なれない響きで部屋のすみまで転がっていく。そのくせ、両方の耳からそうっと入り込んで、みぞおちあたりを内側からくすぐられるような親密さがある。それはキースをひどく心地よくさせる。


「休みがとれたら、僕の両親の故郷にいきましょう。ふたりで冬のみずうみにいって、丸太小屋のストーブで肉をあぶって食べるんです。ボルシチの材料は、みずうみ近くの町のマーケットで買っていきましょうね」キースは、やわらかく融けてしまったようなセンテンスの、一つ一つを拾いあげるようにして、うん、うん、と律儀な相づちを打つ。
「ビーツとたまねぎとソーセージと、サワークリーム。わかさぎが捕れる時期は、とても寒いけどたのしいかもしれません」「楽しみだなあ、とても楽しみだ」以前は、イワンが眠ってしまうまでのたわいもない話に、真正面から付きあっていた。赤ペンを入れるような真っ当さで、それは無理だよとか、あまり現実的じゃない、とか。だけど、それをイワンは喜ばないようだった。「ヒーローは忙しいですし、無理だって、僕も思うんですが、でもやっぱり、本当にできたらいいのにって思うんです」。キースは全くもってその通りだと思った。同じ夢も見られない相手と、いっしょにはいられない。
「オーロラが見られる場所もあるらしいです」「オーロラか。まだ実際に見たことはないんだ。きっと綺麗だろうな」返事はなく、規則的でしずかな呼吸音だけが聞こえてくる。キースはほほえんで、イワンの寝息が部屋に満ちるのを待ってから、ベッドサイドランプに右手を伸ばして、ぱちんと明かりを落とす。
 これから20年くらいしたら、旅に出ることもあるだろう。揃いの角ばった旅行かばんを持って、帽子をかぶって、うるさいPDAに呼び出されることもなく。それまでは夜中の短い時間だけ、夢の中でふたり、どこへも行こう。オーロラを見て、南の海であそんで、旧い教会に膝を折り、熱帯雨林のジャングルを進んで、いつも手をつなぎながら。おやすみなさい。



(110916)