大学二回生の当時に理一が付き合っていたのは、背が低く、ゆっくりと耳に優しい高さで話、楽しいのも感動したのも拗ねているのも、思ったことがすぐ顔に出る質の女の子だった。人懐っこい笑顔で人好きするので友人も多く、都内の女子大の文学部でフランス文学を専攻、茶道の家元の一人娘で、つまりは、叔父――自分でも扱いきれず手に余すほどに複雑に曲がりくねって入り交じった感情の対象で、その熱帯植物の地下茎めいた情念は、二十年近く経った今でも、ふと地表に顔を覗かせ、理一を困惑させる――とは、真逆の人間性を持つということだ。彼女はいかにもお嬢様らしくおっとりとしていて、女子大の近くにあるケーキ屋の新作や、最近かかったばかりの単館映画、花の名前などにもめっぽう詳しかった。そういう、いとけない少女めいたところが好きなのだ、と理一は思っていたし、思うようにしていた。これまで付き合ったのも、そのようなタイプの娘が多かったからだ。そもそも付き合いだしたのは、向こうからのアプローチがあったからなので、好きになった理由や、きっかけなど、覚えていなくても仕方ない。
 しかし彼女が、それまでの恋人と違った一点は、まさにその、女らしさを構成するパーツのひとつ、花の名前をいくつも知っているところだった。メジャーな洋花だけでなく、小さな野花や和花にも通じていて、それが理一の中で、乱雑にがちゃがちゃと積み上げ、放り投げていたままだったパズルのピースを動かして、表面に描かれた図柄を組み上げる契機になったのだから、人生はわからないものだ。
「陣内くん、待った?」
「いや、今来たとこ」
 そう言ってやると、彼女は鼻にしわを寄せ、きゅっと笑んだ。花壇べりに腰かけた自分の目線で、サーモンピンクのマフラーが、子犬の尻尾のように機嫌よく揺れる。12月の駅前広場はイルミネーションが輝いて、人が溢れ、どこもにぎにぎしかった。学校帰りの今日は、彼女が家族に買うのだと言うクリスマスプレゼント選びに付き合って、食事に行く予定だった。10年の昔から流れすぎて、もう擦り切れたようなクリスマスソングをBGMに並び立つ自分たちは、一人前のカップルのように見え、それ以外の何者でもない。それなのに、理一はどこか尻の座らない、居心地の悪さを感じている。ぼたんをかけ違えたような違和感の理由は、口に出しては言えないような、背徳のにおいがする。
 立ち上がった花壇の隅に、白色がまばらに散っていた。色彩に溢れた広場の中、侘しいドットの一滴として、夜のモノクロームの中に綻びている。申し訳なさそうに開いた、一重の花びら。ひっそりと枝に花を寄せた姿は、花が持つ艶やかなイメージからはほど遠く、その身を隠してしまおうと懸命でいるようでもある。そのたたずまいを、理一は見たことがあった。さてどこであったろうと思いを巡らせているうち、実家の入り口近くで、雪を纏っている像が、瞼の裏に結びついた。しんしんと積もる白の下、ほとんどの花が地中深く眠る中で咲くその花には、潔さがあった。春や夏の、温い土や間延びしてだらけた空気とは馴れ合わないのだと、一切を拒んでいるようだった。
「なあに」
 ぼうっとしていた理一を引き戻すように、彼女が腕を絡めてくる。陣内くんが花を見てるなんて、珍しいね。
「ん、これ、うちにもあるなと思って」
 指差すと、彼女は花壇を覗き込み、得心したように頷いた。
「ああ、侘助ね」
「えっ?」
「侘助椿。椿の品種」
 思わぬところで知った名を聞き、聞き返した理一に、彼女はこともなげにもう一度、その名を繰り返した。侘助。茶席の花として重用されるのだと彼女は言う。
 祖父は洒落者で、華道や茶道にも精通していたと言う。外腹の息子に名前をつけたのも彼だろう。もしかしたら、茶道の何がしかで知り合った女を孕ませたのかもしれなかった。
 先ほど花を見たときの感想が、頼みもしないのに、テロップのように流れる。カッと頭の芯が熱くなる。
「やだ、どうしたの陣内くん。幽霊でも見たみたいな顔」
 きゃらきゃらと笑う声が、耳元を素通りしていった。感情だけが東京からの距離を越え、上田に引き戻され、脳裏で、ま白い花椿が、静かに開いた。

 

 長野は芯の通った、いっそ笑い出したくなるような寒さで理一を出迎えた。東京の冬は、言わせて見れば、温いのだった。新幹線で帰る途中、静岡を過ぎた辺りで車内の空気に一筋の冷たさが混ざり込んで、やはり冬はこうでなければと、去年も思った気がする。バスを下り、荘厳な居姿の家門をくぐると、木造の馬鹿でかい実家である。結局彼女と会った日から、なんとなくそわそわとして、繰り上げて帰省を決めた。顔を見れば、瞼の裏に枯れない花の理由も、少しははっきりするかと思ったからだった。
 果たして、椿の木は、理一が覚えていた位置そのままにあった。雪を戴いた枝ぶりは、花壇で見たそれとは違って、年月を感じる力強さを備えている。そのところどころに、花椿が、ひっそりと隠れるようにして咲いていた。
 わん、と犬の鳴き声がして振り返ると、侘助が、ハヤテの引き綱を手に立っていた。コートの襟から覗く首筋が、ぶ厚い雪雲の下白々として、ともすれば雪のそれと混ざってしまいそうだった。
「よお」
「……早いんだな」
「早くて悪いか。さっき着いた」
 低く卑屈に笑うのが、割に整った侘助の容姿に、ぽつりと落ちた陰染みのようであると思う。
 お互い東京に出ているのに、おかしいぐらい東京では会わなかった。無意識的に会わないようにしていた、というほうが正しいかもしれない。電話は引いていたが、番号は交換していなかったし、約束なんてしなかった。
「何だよ、幽霊でも見たみてえな顔して」
「うん」
 理一の腹に座った感情は、正しく幽霊だった。思わぬ時に顔を覗かせて、理一の肝を冷やす。見たくもなく、気づきたくもなかった。怖いのだ。散らすことができないなら、いっそ咲かないで欲しかった。毟り取り、踏みにじってしまうべきなのに、理一にはそれもできない。ひそかに咲いた一輪は、罪を栄養に匂いたつから美しいのだろう。
 雪面に、頭ごと落ちた一輪を拾い上げ、侘助の髪に重ねると、青白く、不健康な肌色よりまだ白い花が目に眩しい。理一の動向を視線だけで追っていた侘助は、その指が繋げた動きの終着に目玉をくるりと回して、呆れた顔を作った。
「男に花飾っても巧くねえだろ」
「そうだな」
「わかんねえ奴」
「はは」
 女にやれよ、と軽蔑したように鼻を鳴らすのを、笑ってやり過ごす。お前だからするのだと、この花だからなのだと、そういう理由を、知らせることは一生ないだろう。花を地面に向かって投げると、理一は軽いボストンバッグひとつ下げて、玄関戸を潜った。侘助がそれに続いた。



(100205)