佳主馬が14の夏、健二のところへ行った時の話。スポンサー契約の関係で東京に出なければならず、その時さもついでだと言わんばかりの口振りで、会う約束を取り付けた。本当はそっちの方がメインくらいの気持ちのくせにだ。 週に二三度は、OZ経由でチャットや通話をしていたが、直接顔をつき合わせて話すのはやはり全く違う。夏希を交えての東京観光や高校案内、その四日間は飛ぶように速く過ぎた。中でも、名古屋に帰る前の夜に出掛けた祭り、健二のうちの近所にある神社で行われたそれは、健二と一緒に行った、という付加価値を差し引いても掛け値なしに楽しいものだった。 目を閉じてもぴかぴかと網膜を刺すオレンジ色、鮮やかな豆電球の光を受けて風車が回る。濡れたように光るりんご飴や香ばしく焦げたソースの匂い、屋台の軒に釣られた風鈴は、夜風を受けると一斉に、ちりちりと涼しい音を奏でた。笛の音が人並みのさざめく合間を縫う。沿道に立ち並んだ縁日の一角に、金魚すくいの屋台があった。のれんは古びて日に焼け、歴史を感じさせる店構えの中に、ちんまりと皺だらけの老婆が座っていた。傷や汚れが年輪のようについた水色のプラスチック桶の中に、赤やオレンジの、薄く透ける尾びれを揺らした金魚が、重なりあうように泳いでいる。小さい子どもが幾人か、はしゃぎ声を上げながら、水面と格闘していた。 上田の田舎の縁日もこんなふうで、古い映画のようにそこだけ時代がかっていることが思い出されると、それに連なって曾祖母のこと、去年の夏のことが数珠玉のようにまろびでた。未だに薄れない熱い夏の記憶だ。 「佳主馬くん、金魚すくいやりたい?」 懐かしさに足を止めた佳主馬を勘違いした健二は、にこにこ笑いながら、止める間もなく500円を二枚、老婆に差し出した。いつもつんとして、健二をやり込める年下の少年の、子供らしいところを見つけて、的外れに喜んでいるのだった。ぴかぴかした、プラスチック製のタモを受け取って、佳主馬に握らせる。 健二は佳主馬に色々と奢りたがり、食事や電車賃など、少し滑稽な程に、自分が二人分の料金を出すことを主張した。曰く、年上の義務だということだ。佳主馬がいくら稼いでいるなんて知らないくせに。兄弟がいたらこんな風なのかなって思うんだ、と少し含みのある笑みを見せられると、佳主馬は弱い。3回に1度は渋々財布をしまうことになる。それに、ただ弟としか見られていない証拠なのだとわかっていても、健二の管理下に置かれている、庇護されているという空想に摩り替えることで、彼の抱えている、きりきりと引き絞られた、どうしようもなくどろどろした恋情は、少しだけ慰められるのだった。 「掬ってどうするの、名古屋まで連れて帰れないよ」 照れ隠しに口を尖らせると、健二は瞬き、困ったように目を左右に泳がせたが、ややあっていいことを思い付いた、とばかりに笑顔になり、ひとつ頷いた。 「じゃあうちで飼うよ。ね」 結局、健二は勢い込んでタモを振るったが1匹も掬えず、佳主馬は7匹掬って、1匹だけ連れて帰った。ビニールの袋の中で、引き延ばされた金魚の姿がゆらゆらと揺れる。連れ帰られる金魚に自分を重ねて、佳主馬は面映ゆいような、眩しいような、胸の奥の方を人差し指でかき混ぜられるような気持ちになり、そっと目を伏せた。体ばかり大きくなってきたものの、佳主馬は中学生であり、恋愛の持つ本質どころか、その尻尾の端っこすら、捕まえられてはいないということを、まだ知らない。 次の朝待ち合わせ、健二の自宅近くのホームセンターに行って、鉢とポンプと餌、他金魚を飼うのにいるものを買ってきた。ポンプも入れ辛いし、水槽にしたらどうかと佳主馬は進言したのだが、健二は金魚と言えば鉢だから、と頑なに譲らなかった。温和で争い事を好かないように見えて、意外と頑固なところが健二にはある。飼うのは健二なのだから、そこは佳主馬が譲った。小磯のうちに上げてもらい、窓際に金魚鉢を置いて、ポンプの電源を繋いだ。途端に、丸い気泡が幾つも浮かび、弾けては消える。ぽこぽこと水の循環する音が何とも涼しく、よく洗った玉砂利を敷いて、水草を植え込んでやると、それはもう完璧な、金魚鉢のイメージそのものが、そこにあった。 佳主馬はその閉鎖された綺麗さに満足し、健二の方を見た。健二は餌やカルキ抜きの薬をしまってしまうと、所在なさげにぼんやりと突っ立って、佳主馬のやることを眺めていた。 「どう?」 「うん」 健二はきょろきょろと落ちつかなげに視線をさ迷わせると、一歩下がり、目を細くして金魚鉢を、まるきり観察するふうにした。それ以上、感想らしいものは出てこないようだった。その、温度というものの抜け落ちた視線に、佳主馬はなんとなく嫌なものを覚えたけれど、そのあたりは、無意識下のもとに、14歳の軽薄さでどこか遠いところに押しやってしまって、わざと冷静な声を出す。 「健二さん、金魚、鉢に入れれば」 一晩浴室に置いてあったバケツから、プリンのカップで金魚を掬ってきて、すっかり設えた住みかに落とす。金魚は、あっさりと水の中に潜り込み、それで終わりだった。世界は2人の手によって創造され、ひと鉢の中で完成された小宇宙が、小磯家の食卓テーブルの上に、置かれている。 「ちゃんと世話してよ」 新幹線の改札前で別れた。先ほどのぞっとする目付きを思い返し、佳主馬は念を押したが、土産だ弁当だと売店を歩き回る健二に、佳主馬の言葉がきちんと届いたかはわからない。 --- 秋になり、冬がきた。東京から戻ってからの一月程度は、金魚の現況について尋ねてみたりしたものの、日々の過ぎるにつれて、そうすることもなくなった。最初の頃に、メールに添付されていた写真を見る限りでは、金魚は上手く育っているようだったし。 --- 次に直接健二と顔を合わせたのは、春休みのことだ。健二の受験の都合で、冬の休みには会えず、佳主馬の三月の休みまで持ち越しになっていたのだった。大学合格おめでとう、だとか、佳主馬くんも今年は受験生なんだねだとか、当たり障りのない話をしているうち、健二が自宅を出て一人暮らしをするのだと言ったので、佳主馬はふと金魚のことを思い出した。 「そういえば、金魚、どうしてる」 「金魚…ああ」 佳主馬の唐突な話題転換に、怪訝そうに眉を寄せた健二は、少しの間首を傾げたあと、痛ましそうに表情を作り変える。 「死んじゃったんだよね。11月ぐらいに」 朝まではいつも通りだったのに、家に帰ると、金魚が鉢から飛び出していたらしい。慌てて水に戻したが、金魚の尾びれは、もう二度と水を掻くことはなかった。 死んだ金魚をどうしたのかは、なんとなく聞けなかった。 「ごめんね、佳主馬くん。せっかく取ってくれたのに」 金魚を検分していた健二の視線から、佳主馬が感じ取った不穏なもの。遠くへ追いやっていたそれが、確実に背後から忍び寄っていた。健二の気持ちは、金魚を悼むほうではなく、佳主馬の気持ちを慰めるほうだけに向いている。それが佳主馬を恐ろしくさせる。 自分が今相対しているのは、これまでに知らない人種なのだと言う、底知れない恐れのようなもの、そして自分はそんな彼を好いているのだ、傲慢にも、いつか愛されると思っていたのだと言うようなことを、一挙に目の前に突きつけられた形になる。肌とカットソーの間に薄氷を入れられたように、佳主馬は一度真っ直ぐに背筋を伸ばし、ぶるりと大きく震えた。その後何を話したか、どんなことをしたかは、あまり覚えていないのだが、その夜見た夢のことを、佳主馬は時々思い出す。 夢の中で、自分は一匹の金魚だった。ガラスの鉢を住処にして、水の中を自在に泳ぎ回れる身体を持ち、何だって出来ると思っていた。だからきっと、膜越しに覗き見る世界でもうまく生きていけると思ったのだ。勢い跳ね出た金魚鉢の外は、彼の思っていたより冷え冷えとしていて、なにより息が出来ず、ぱくぱくと空気を求めて口を開け閉めするが、誰も手を貸さない。水中では思うままにしなった、美しい赤色の身体が、徐々に水気を失い、干からびていく。もう駄目だ、苦しい、息が続かない、というところで目が覚めた。 起き抜けで靄のかかった頭のまま、佳主馬はその夢に自分の恋心を見て、少し泣いた。無様に跳ねて、乾いて死ぬ恋。神様は、佳主馬のことも救わないだろう。
(091116)
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