健二の心を麻薬じみた依存性で掴んで離さないもの、数学。迷路のように入り組んだ数字の森の中を、わずかなヒント片手にそろそろと進む。獣道めいた整備されていない道を見つけては、公式という地図と見比べ、分け入り、戻って、新しいルートを探す、以下繰り返し。脳がひたすらにクリアになっていく行程と、答えにたどり着いた時の充足感。問題を解いている時だけ、健二は実界で彼にまとわりつく、時間や人間関係など、いくつもの重りから自由になれた。ちょっとなりすぎるきらいがある、と言っても過言ではなかった。

「ちょっと健二さん」
「わっ」
 人心地ついて大きく伸びをした瞬間、目を覆っていたレンズが無くなって大声を上げる。その拍子に何度か瞬くと、大粒の涙が零れた。随分長い時間、真剣にレポート用紙を睨んでいたせいで、瞬きがなおざりになっていたのだった。
「あー、びっくりした」
「びっくりした、じゃない。カギ開いてた。電気もつけてないし」
「あ、もう夕方?道理で随分暗いと思った」
「…信じられない」
 朝の授業で出された課題が少し難しく、予想外に手応えがあったのがいけない。ペンを回しながら数字を弄繰り回している間に、健二の存外負けず嫌いなところに火が点いた。それ以降の予定がないのをいいことに、うちに着くなり上着を脱ぐのもそこそこにして、ずっとパソコンと向かい合っていた。ベランダから見える街はすっかり夜闇に浸っていて、自分がいかに夢中だったかを思い知らされる。
 背中側で仁王立ちする年下の人は、健二の眼鏡を片手に渋面を作っていた。呆れたと言わんばかりに頭を振って、眼鏡を畳むと自分のポケットにしまう。健二の視力はここ何年かでぐっと落ちて、あれがないとディスプレイを見るのは厳しいから、つまりはもうおしまいということだ。それでも、自分が問題を解き終わるタイミングを計ってストップをかけてくれたのがわかって、健二は眉を下げてくつくつと笑った。
「なに笑ってんの。飯作ったから食べるよ」
「え、ほんと」
 佳主馬は器用にコンソールを操作する指でもって、飛び切り美味しく料理を作った。化学調味料のたくさん入ったジャンクフードとレトルト育ちの健二にとって、佳主馬の作る食事は、知らないはずのノスタルジーを呼び覚ました。あの夏、学食以外ではかつて同席したことがないほど多人数で囲んだ食卓の、健全な明るさと、連綿と受け継がれてきた伝統の重さ、みたいなものを感じさせる。

 キッチンを仰ぐと、こんろの上に鍋が二つ乗っている。炊飯器が米を蒸らすいい匂いがしていた。食べる物を認めると、健二の腹は現金なくらいあっさりくぅ、と鳴いた。歓声を上げようとしてしかし、健二はある可能性に気がつき、上げかけた腰を下ろした。胃の腑が喜ぶのとは逆に、心臓の辺りがずっしり重くなる。少なくとも料理が出来上がるまでの時間、彼は黙って待ってくれていたのだ、とわかったためだった。
 声をかけてくれたらいいのに、と言うのは憚られた。なにしろ、それなりに耳につくだろうドアの開閉音や調理する物音に気づかなかったのは健二の落ち度だ。自分が数式と向かい合っている間、佳主馬に台所用の小さい、薄暗い電気ひとつで過ごさせていたのかと思うと、健二の胸は申し訳なさでちりちりと音を立てるような気がした。
「ごめんね」
「いい、慣れてるから。手洗って箸出して」
 佳主馬が料理を温めなおし始める横で、洗面所に行かずに水道の蛇口を捻った。冷たい水でざぶざぶと手を洗いながら、もとは白かったはずの、くすんで日に焼けた壁紙を眺める。味噌汁の湯気が胸に入り込んできて、とてもいい匂いがする。幼い頃、夕焼けの通学路で嗅いだ、住宅の窓から漏れ出る匂いだ。健二が持っていなかったものを、佳主馬はくれていた。甘やかされているなあ、と思うのだった。
「佳主馬くん、ありがとう」
「何、改まって。気持ち悪い」
 返事はつれなかったけれど、眉の間に皺を寄せて、ぷいとそっぽを向いてしまう佳主馬の、その耳が熱くて赤いことを健二は知っている。可愛らしく思って、息だけで笑うと、お玉を持っていないほうの手が伸びてきて、健二の頭をごつんとぶった。

 問題を解いている時だけ、健二は実界で彼にまとわりつく、時間や人間関係など、いくつもの重りから自由になれた。ちょっとなりすぎるきらいがある、と言っても過言ではなかった。けれど健二には、彼にだけ働く優しい重力がある。それがある限り、健二は大丈夫だろう。


(091108)