理一がまだ栄の膝に座れた頃の話。理一は大変動物に懐かれやすい子どもだった。吠え癖があって近所の小学生に恐れられていた秋田犬も、その家の前を通学路にしていた理一が通りがかると、だらしなく腹を見せて寝転び、きゅうきゅう鼻を鳴らして撫でてもらいたがった。猛暑に世話をしてやった野良猫が、春になって子猫を見せに来たこともあった。 「あんたはそういう質の子なんだねえ」 太陽の光が、丸みのある白さで畳に散らばっていた。庭の梅の花が香っていた。ある春の日、栄の部屋で将棋を教わりながら、学校に迷い込んだ狸の話をした時のことだ。足の怪我の手当てをし、裏山に帰してやった下りまでを聞き終わると、彼女は皺のいった顔を綻ばせてしみじみと呟いた。 「弱いものが寄ってくるということは、あんたにそれなりのものがあるからだ。お役目だね」 「お役目」 「理一、あんたを頼ってきたもののこと、ちゃんと面倒を見ておやりよ」 「うん」 尊敬する祖母から誉められたのが嬉しくて、面映ゆい気持ちで理一は頷いた。お役目。大きくなるにつれて、栄の言葉は身体の細胞一つずつに染み渡り、彼の行動、ひいては生き方を知らず知らずの内に決定付けた。 侘助が栄に手を引かれ、陣内の家の敷居を跨いだのは、汗がじっとりとシャツの背を濡らす、夏のことになる。 帰省の中日に、小学校時代の恩師の訃報が入った。同級の、役場勤めの女子生徒が電話で知らせ回っているらしい。今日自宅で通夜するのだと言うので、出向くことにした。持ち帰ってきた本を読むか、テレビを見るかぐらいしかすることがなく、亡くなった教師には悪いが、いささか暇を持て余していたのだった。侘助と同じクラスだった時の教師だったので、お前も行くかと声を掛けてみると、意外なほどあっさりと腰を浮かせた。彼もまた退屈だったのだろう。田舎には娯楽がない。 喪服に着替えて居間に戻ると、侘助はスラックスにシャツ姿で煙草を吸っていた。灰が落ちるぞ、と言いかけて飲み込む。 「お前、ネクタイは」 「締め方わかんねえもん」 「お前ね・・・」 あっけらかんと言う侘助に、理一は呆れて天を仰いだ。遠くアメリカまで行ってしまうほど図抜けた頭脳を持っている癖に、どこか子供臭く、常識知らずのところが、侘助にはあった。 「だって中高と学ランだったし、研究室ではノーネクタイだし」 「常識だろう」 珍しく言い訳がましい口調で抗弁するのを一言で切って捨て、足元で蟠っているネクタイを取った。濡れ縁に膝を着き、手振りで首を突き出させる。他人にネクタイを結んでやったことがなかったので、ノットを作るのは少し骨折りだったが、少し歪んだ以外はなかなか美しくできたように思う。仕上がりに満足しながら微調整を繰り返し、離れると、しかし侘助は機嫌悪げな面持ちで眉間に皺を寄せた。幾度か瞬きをし、居心地悪そうに喉を触る。 「気持ち悪ぃな。窮屈だ」 やっぱ俺、行かねえわ。しゅるり、と布の擦れる音を立て、ネクタイは次の瞬間、死んだ蛇のようにあっさりと床に落ちていた。そのまま居間を出て行く侘助は勝手で、ずいぶん気まぐれだったが、二十年来の付き合いでそんなことはわかっていた。母さんが怒るだろうな。思いながら、打ち捨てられたそれを拾って、ポケットに入れる。 その光景を、理一はくっきりと思い出すことができる。夏のもくもくとした入道雲、青すぎる空と畑のみどり。いつも賑やかな家はその時音を失くしていた。ネクタイは、侘助の首に結ばれると、首輪みたいだな、と思ったことも、なぜかありありと覚えている。 「何で俺の部屋にいるんだ」 「俺の部屋埃っぽい」 「あっそう」 風呂を使い、居室にしていた(今はすっかり物置じみている)部屋に戻ると、そこには先客がいた。だらしなく座布団を枕に寝転び、携帯端末を突いている。少し痩せたようだった。宴席の空気をぶち壊しておいていいご身分だ、と思ったが、不思議に腹は立たなかった。何をしてもこいつならば仕方がないな、という認識が、すっかり理一の中にはできあがっていた。 「そういえば、そろそろ先生の十回忌だそうだ」 行くかと問えば、行きたかねえよと鼻で笑った。侘助の出奔によって、あるいは隔たっていた時間によって、昔とは何もかも違っていた。帰省によって家に集まる人数も、それによって起こるざわめきのヴォリュームも、自分達の周りを取り巻く環境、内側、二人の関係性、全て違っていた。 「第一、ネクタイが嫌だ」 「子供みたいなことを言うな」 「首輪みたいで鬱陶しい」 理一の心臓は、奇妙に動いた。十年前の自分が同じように思ったのを、覚えていたからだった。彼らは同じ時間軸で時を重ね、それなりに老けていたが、その時理一は、突然十年前に戻されたような不安定さを感じていた。 侘助は野生の獣であって、飼い慣らされるべきではない。寄ってくるようで、手を伸べると逃げる。だから理一は侘助を静観していたはずだった。お前のすること全部諦めているよ、というスタンスを取っているくせに、本当は首輪を付け、隷属下に置きたかったのではないだろうか。思えばいつでもそうだった。ふらりと部屋にやってきて、何を話すでもなく俯いている侘助、ラジオの音、理一はシャープペンを走らせながら、侘助を強く意識していた。 「俺はいっぺんもネクタイを上手く結べたことがなかったよ」 不自然なまでに重く横たわる沈黙の中、ぽつりと侘助が零した。理一はもう二度と来ることのないだろう、侘助の首にネクタイを結ぶ機会を思ったが、決して涙は出なかった。
(091015)
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