タイピング音が止んだ。読みさしの課題書から顔を上げると、佳主馬くんがパソコンを閉じて、僕の座っているソファに向かってくるところだった。隣に心地いい重みがかかって、布張りの座面が柔らかく沈む。揺れた髪の毛から、高校生らしい汗とほこりと太陽のにおい、つまり学校のにおいがして、なんだかとても懐かしくなってしまった。僕はもう20歳を超えていて、世間的には大人で、そういう健康なものとはずいぶん程遠くなってしまっている。つい何ヶ月か前に告白されたときも、津波のような驚きのあとに胸をよぎったのは、感動や嫌悪感じゃなくて、こんなドラマみたいなこと僕にも起こるんだなあと、感心のようなものだった。世間並みに擦れて生きてきている。 「試合は?」 「今終わった」 「よかった、おめでとう」 「勝ったなんて言ってないじゃん」 佳主馬くんは口元だけで静かに笑った。でも佳主馬くん、負けたときは、結構あからさまに落ち込むじゃないかと言うのは、年上なのでやめておいた。 肩に頭の横が乗っかって、重力が増す。その姿勢しんどくないのかなあ。首痛そうだけど、大丈夫だろうか。あとちょっと重い。少しだけ何もない側にずれると、動きの幅が思ったより大きかったみたいで、佳主馬くんの体は面白いぐらいに傾いだ。珍しく目がまん丸になっている。 「重かった?ごめん」 「違う違う、ごめん。ねえ、パソコンもういいの」 なんとなくそうだとは言えなくて、小さい嘘をつく。 「それ読み終わるの、時間かかる?」 「や、もう終わる」 「じゃあいいよ。待ってる」 そのまま自然な流れで、膝に質量が移動する。いわゆる膝枕というやつに、僕は存分に照れる。こんなことこれまでやったことなかった。佳主馬くんと付き合うようになってから、どんどん作りかえられているような、そんな感じがする。自分の内側がぐらついて、不安定になる気がした。指先の感覚があいまいになっていく。ページがうまくめくれないで、三回ぐらい滑った。 「そんな緊張しなくても」 「いや、でもだって恥ずかしいよこれ」 冗談めかして笑っても佳主馬くんは笑ってくれない。いたって澄ました顔で目をつぶっているので、僕も笑うのをやめた。そうすると、さっきは気にならなかったけど、部屋が妙にしんとする。冬の先触れで外気はきりきりと冷たく、部屋の中の気温はそれほどではないけれど、夏よりも空気の密度を増していて、ページをめくる音が面白いくらいに響いた。気まずい。こわい。耐え切れなくなって口を開く。 「お茶とか飲む?」 「いらない」 「ひまならテレビつけよっか」 「いや、いいよ」 リモコンに伸ばそうとした手を上から押さえられて、止められた。佳主馬くんのほうを見ると、佳主馬くんはなんとも言えない表情で、僕の手の甲を撫でる。そろそろと指先から這い上がってきた硬い掌が、ぐっと手首を握って、一気に血が沸騰する。 「ていうか、そろそろ」 「あ、そ、そうだね」 そろそろ、のあとは無くてもわかる。もう僕と彼は幾度か寝ている。シャワー浴びてくる、とどうにか立ち上がると、膝が変なふうに鳴いた。佳主馬くんは探るようにこっちを見ていた。服越しに肌を滑るような視線。喉から腹を辿って、止まった。 佳主馬くんがお風呂から上がってくるのを待って、ベッドに移動した。シーツは来る前に換えておいた。電気はつけなかった。すぐ消すからつけても無駄だ。性急に服を脱いで下着だけになると、とりあえず着ておいたスウェットの下が足元でぐちゃぐちゃに絡まった。 顔が近づく。舌がぬるぬると唇の上を滑って、音を立てて割り入る。濡れた薄いものが口蓋の上のほうを撫でると、つま先まで電気が走って体が突っ張った。疼痛に腹の中が痺れて、前がきつくなってくる。キスだけでこれだけ気持ちよくなれる自分はどこかおかしいのかもしれないなあ、と場違いに思った。一人で処理することはあっても、こういう経験は言うほどないから、当然のことなのかもしれないけど。 舌を絡めると、さらさらした布みたいな感じがする。同じようなレスポンスを返すと、僕の頭と腰を抱いた佳主馬くんの手がぴくりと反応するので、喜んでいるんだということがわかる。胸を擦りつけるようにして、舐めるのに集中していると、深くなっていく。息継ぎがしにくくなる。顔が熱いのに、足が冷えている。唇を離すと、唾が名残惜しい糸を引いて、シーツに落ちた。 しばらく荒い息をついていた。鍛えている佳主馬くんは呼吸を整えるのが早い。運動から縁遠く、貧相な体つきの僕は時間がかかるので、いつも待たせてしまう。その合間。 「…ねえ」 佳主馬くんが小さく呟いた。それきり黙っている。さっきまでの空気が一変して、声が苛立っている。怖い。なにかしてしまったろうか。こうやって小さいことにびくつく自分が情けない。 「いつまでそうやって、不安そうな顔するの」 「えっ」 返ってきたのは予想外の言葉だった。思わず自分の顔に手を伸ばす。肌が指をはじく。自覚がないからしょうがない。何を言われているのかよくわからない。不安がるようなことはなにもないはずだった。だけど怖かった。そんな顔、しているんだろうか?きっとしているんだろうと思った。 顎をつかまれる。もう一度唇が合わさる。さっきとも、これまでとも違ったキスだ。腹をすかせた獣のような、がつがつした17歳がぶつかってくる。上唇と下唇を痛いぐらいに食まれて、歯を立てられた。逃げようとした舌が吸われる。びたびたと魚みたいに跳ねる。痛い。こわい。血が出たかもしれない。水音が耳に響いて、どんどん頭に血が上っていく。頭の奥が熱で暴走する。 ゆっくり体が倒されて、熱まみれの視線とかち合った。佳主馬くんのほうが苦しそうで、傷ついた顔をしていると、人ごとみたいに思った。 「自分でわかんない?」 「ふ、う、うん」 「じゃあなおさら悪い。健二さんは、いつもそうやって、僕ばっかり悪いような顔してる。ずるいよ」 罰を与えるように喉にたてられた歯は、それでも優しく、一途なやるせなさに震えているのに。 ずるい。確かに。被害者ぶって、いつも相手任せ。そうしなければ怖くて、体すら預けられない。怖い。自分が自分じゃなくなるみたいで、なにより佳主馬くんが、僕に引きずられてその健全さを無くしてしまうみたいで、抱かれるたび、寄り添うたび怖い。いつか無くしてしまうのが怖い。だから僕は自分から佳主馬くんに触れない。怖いから。それを言い訳にして。だから一歩踏み出せないで、佳主馬くんが悲しい思いをする。 何が怖いの、なんて聞かないで欲しい。何が怖いかわからないから怖いんだ。 「ごめんね」 目を閉じる。組み敷かれたまま手を伸ばして、髪を梳こうとすると、佳主馬くんは子供のようにいやいやをする。大人である僕は泣けないでいる。 濡れたものが頬に触った。乾かしきらない髪の毛か、佳主馬くんの眦から流れているのか。暗闇が僕と佳主馬くんの輪郭をわからなくする。 (091014) |