世界の果てのホテル
40P 400yen シュテルンビルトと、同じように海を埋め立てた海上都市との違いは、その独特の三層構造にある。物理的に太陽に近いせいで夏は暑く、海面から吹き上げるように襲う風で冬は凍える寒さだった。自然をたわめた歪みの報いだろうか。 故郷のねっとりと肌に纏わりつくような空気とは違って、シュテルンビルトの湿度は低く、からりとしている。ただ、夏の日光の苛烈さをひしひしと感じるのはシュテルンビルトにいるときのほうだった。矢のように降り、影ごと地面に焼き付けてしまおうとする光は、ゴールドステージにいると余計に厳しく感じられた。 早朝からの長距離ドライブを無事完遂した解放感に、虎徹は信号待ちの隙を見て、ハンドルから手を放して大きく伸びをした。途端にせっかちな後続車からクラクションを鳴らされ、慌ててアクセルを踏み込む。 一人きりで過ごすのは、休みが始まって以来だ。娘のハイスクールのサマーキャンプに合わせて実家から戻ってきて、また彼女が帰ってくるまではまるまる一週間。仕事――二度目の引退の後、ヒーローアカデミーで教壇に立つことを選んでから三年になる――が始まるまでは二週間ある。 かと言って予定らしい予定と言えば、ジムに行くか、飲むかくらいしかないけれど、寝るも起きるも気ままな一人暮らしに、今日から戻る。 ゴールドステージの中央駅に娘を送り届けると、もう大した用事はないから、まっすぐ自宅へ戻るだけになる。 冷蔵庫の食べものがまったく空だから、スーパーマーケットに寄るのも考えたが、昼は近くの店のチキンで済ませて、ひと寝入りして日が落ちてから買い出しに行けばいいと思い直した。ビールは買い置きがあるし。ビールとチキン! 最高の組み合わせだと虎徹はひとりで笑んだ。 年代物のSUVの開け放した運転席の窓から、爽やかな風が抜けていく。この街には緑が多い。海に散らないように常緑の街路樹の葉が群れて目に涼しく、激しい太陽の光を遮って、地面に黒々と影を落としていた。白いサーチライトじみた日光とのコントラストが眩しい。 何もかも焼き尽くしてしまおうかという強い日差しの下で滴るような緑は、年若の元相棒を思い起こさせるのに充分だった。 燃えるように茂る緑、透明がかった地底湖の翠、燐光じみた淡いみどり。場面ごとに濃度を変える虹彩は、しばらく見ていないからこそ、ひと際美しく思い出される。三か月近く、HEROTVのインタビューでしか見ていない、眩い流星のようにきらめくグリーン。 次に直接見るのはいつだかな、とうすい寂しさを伴って虎徹は思う。これから三か月あとか、一年後か、もしかしたら十年後。そんなふうに思っていた機会は、思ったよりすぐやって来た。 スピードを落として曲がった自宅フラット前に、見慣れてぴかぴかした赤い車が停まっていて、虎徹は目を細めた。 こんな日の高い時間にそこへあるはずのないあの車は、今やエンジン音を聞くだけでわかる、無駄をすべてそぎ落としたような流線型。そして、なめらかなボディに凭れて腕を組んでいるのは、間違いなくほんとうのバーナビー・ブルックスJr.その人だったからだ。 アスファルトの上に陽炎が立つほど暑いのに、七分袖の白いシャツをぱりっと着て、髪は後ろで短い尻尾のようにまとめている。いつもの細身の眼鏡ではなく、ティアドロップのサングラスを鼻の上に載せていた。濃いブラウンのグラデーションの下はコンタクトか、レンズに度を入れているのかもしれない。 視力が弱く、また眩しいのも得意でない彼の目は、なにもつけず裸眼を晒すと、途端に海の底めいて潤み揺れるのだった。虎徹に眼鏡を奪われて、ベッドに沈みながら見上げる目を、写真でも見るように思い出せる。 虎徹が歩道沿いの定位置に車を停めると、バーナビーは汗一つかいていない涼しげな様子で道を渡ってくるところだった。ハイ、と軽く右手を挙げて、ぎこちなさを微かに漂わせながら微笑む。 「お久しぶりです」 「お前、ずっといたの? くそ暑いのに?」 「そんなに長くは。楓ちゃんに大体の時間を聞きましたから」 そういえば助手席に座った娘は、移動する間中携帯を手放さなかったっけ、と思い返す。駅で別れるとき、絶対寄り道しないで帰ってねと窓越しに言われたことも。胸の下まで髪を伸ばして、いたずらっぽい表情をするときの娘がますます妻に似てきたなとちょうど考えていたので、今の今、バーナビーと会うまですっかり忘れていたのだけど。 「久しぶり。ちゃんと食ってるか」 「たまに自炊も。虎徹さんは? 炒飯ばっかりですか」 「いーや、最近週末にさあ、楓が寮からこっち来て作ってくれんのよ、これが。作り置きしといてくれたりして。あいつ、俺より上手いわ」 「ああ、でしょうね。安寿さんもお上手でしたし」 着替えの入ったボストンバッグを玄関から放り込み、入れよ、と促すと、バーナビーは大人しく着いてきた。 しばらく空けていた部屋はほこりと太陽、晩夏の香りがむっと立ちこめて、こもった熱で一歩足を踏み入れると、外より暑いくらいだった。濃い汗がひたひたと襟足を、シャツの背中を濡らす。 慌ててクーラーのリモコンを取り上げてスイッチを入れる。低い機械音が唸りを上げたが、しばらくはこのままだろう。 「で、どうしたのお前。仕事は?」 「休みを取りました。一週間ほど」 「へえ! よく取れたなあ」 「もぎとりました」 ミネラルウォーターの入ったグラスを置いてやりながら、虎徹が目を丸くすると、どことなくそわそわと緊張した様子だったのが、ぱっとほどけた。こぼれるように白い歯を見せる。久しぶりに見る屈託ない表情に、虎徹も胸を撫で下ろすような気持ちになった。 虎徹の引退後に一部へ復帰してヒーローを続けているバーナビーとは、ここ三か月ばかり顔を合わせていなかった。端的に言うと、別れたのだった。 ヒーローの座から退いたのは、復帰して三年目の、冬のことだった。能力は一分のままで安定していたから、減退のせいではない。 ヘルプで入った工場火災で、ひとり逃げ遅れたライン工がいると、PDAから連絡が入った。その時点でもう能力は切れていて、それでもわき目を振らずに駆け出さずにはいられないのが虎徹だった。 「虎徹さん!」 後ろでバーナビーが悲鳴のような声を上げたのを聞いた。雪の日に燃え盛る工場は、彼のトラウマを刺激するのに十分なシチュエーションだっただろう。 結果として、ライン工を助けたのは虎徹だった。そして、虎徹を助けたのはやっぱりバーナビーだ。倒れてきた鉄骨がうまく装甲の隙間の、生身の足を貫いて、身動きが取れなかったところを、マスク越しでもわかるほど鬼気迫る勢いで跳んできて、ライン工ごとひとまとめにして助け出した。 あなたを失うことが、今の僕にとってどれだけ辛いのかあなたはわかっていないんだと言って、バーナビーは病院でおんおん泣いた。ベッド横の固いパイプ椅子にずっと座って、ほとんど身動きもせず、眠る虎徹の手を握ったままいたのだと後で聞いた。休憩を勧められても、そっと首を振って、片時も目を離さないように。あと少しあんたの目覚めが遅かったら、今度はあの子が倒れるかもしれないぐらいふらふらしてて真っ青で、あたしは気が気でなかったのよ。母がりんごを剥きながら、そうしてため息をついたくらいに。 だから虎徹が、傷の回復後もわずかに違和感の残る足を理由に引退を決めた時も、それを知ったアカデミー側から教官としてオファーが入った時も、 「正直に言うと、ほっとしています」 と言って、申し訳なさそうに少しだけ泣いた。果たしてそれは、割り切ったつもりでからからと振る舞う虎徹の代わりに流した涙だったのかもしれない。 学校勤めになって決まったスケジュールに沿って動く身と、芸能人寄りの、一度コールがかかれば深夜でも駆けつけるヒーローでは、生活リズムもすっかり違うから、各々が努力しないと会うことすらままならない。 そうして、わずかな軋みが積もったある日、内臓まで全部ぶちまけるようなひどい喧嘩をしたのをきっかけに、バーナビーからもううんざりだと告げられた。 「あなたとはもうやっていけません」 甘いところはひとつもなかった。下手をすれば犯罪者と対峙するような冴え冴えとした視線で、吐き捨てるようにして、虎徹のアパートに置いていた荷物をまとめて、鍵をテーブルの上に叩きつけて出て行った。 止められなかった。自分だけが悪いんじゃないという怒り、そう言って今回だってまた元さやに戻るのではないかという期待、一回りも違うというプライド、色々がごたまぜになって、言うべきだった言葉を飲み込んだ間にドアが閉まった。それから連絡もなく、日々の忙しさにかまけて連絡を取ることもできず、うすい諦念だけが広がっていった。 四六時中顔を突き合わせていた現役時代と、どちらがタイミング的に良かったのかはわからない。少なくとも出勤すれば嫌でも隣り合っていた時は、つんけんした空気のまま現場で衝突することもあったが、その分修復するまでの時間も短くすんだ。 ともかく今回、日が経つにつれてはっきりしていったのは、これまでのような居心地のいい関係は、二度と戻ってこないのだろう、ということだった。 --- どうしたって堅気の人間が乗っている車には見えないから、ただでさえ平日の昼間で少ない車が遠慮がちに行く手を譲って、真っ赤のスポーツカーは、彗星みたいなスピードで道を飛ばしていく。 「そういやバニー、今日何時に戻る? 今冷蔵庫なんもなくてさあ」 「あ、今日は帰りませんよ」 バーナビーがあんまり自然な流れで言うものだから、帰りどっかスーパー寄ってくれよ明日食うもん買うから、と続けようとしたのが、口の中でマシュマロみたいに溶けた。 「あなたを誘拐します」 「……はっ?」 耳から入ってきた返事に理解がついていかずに、虎徹はしばらく黙りこみ、それから素っ頓狂な声を上げてバーナビーを見た。彼は涼しい顔でずっと先のほうを見つめている。 なんだか物騒な単語が聞こえた気がする。いやまさか、なんか違うのと取り違えたんだろう。あなたを溶解します。これはこれで怖いな。 「聞き間違いでも言い間違いでもないです。僕はあなたを誘拐しますよ、虎徹さん」 茶化す前に先回りして言われた。 「なんで」 「なんでも。理由がないとやったら駄目ですか」 「いや駄目だろ、誘拐は」 話がずれるな、と頭を掻く。 「あー、とにかく無理、駄目。どっかでUターンしろよ。第一、着替えもなんもねーし」 「ありますよ? あなたの分」 「へっ」 シート越しに後部座席を指す親指を目で追うと、朝、車から確かに持って入ったはずのボストンバッグが、バーナビーの旅行バッグの隣に行儀よく収まっている。どんな手品を使ったんだか知らないが、部屋に放り込んだそれを、虎徹が見ていないうちにうまいこと持ち出したに違いない。 仲良くふたつ並んだかばんを見て、ざあっと血の気が引く。バーナビーの行動は、ばかげた思いつきではなく計画的なものと知れた。 こいつは最初からこのつもりだったに違いない。周到に準備をして、俺を攫うつもりだった。 虎徹が深くため息をつくと、バーナビーはくつくつと笑い声を漏らした。いたずらをした子どもが、小さな両手で口を押えてなお堪えきれないような、楽しそうな響き。 「洗濯は道々ランドリーを探しましょうね、食べるものも買わないと」 マシュマロは要りますか? 僕スモアって食べたことない。うきうきした声に毒気を抜かれて、ヘッドレストにぐったりしな垂れかかる。 --- 運転席の奥にあるバーを倒すと、リクライニングシートはあっけない軽さでフラットになる。さっきまでの発光のうす青い余韻と、月のあかりだけの中で、軽く見開いて見上げてくるグリーンが、きらきら光っていた。 むっちりと詰まった太ももをまたいで乗りかかると、さすがに狭く、自然と密着する形になる。 寝間着代わりの薄いジャージ越しに、兆して芯を持ち始めたものを擦り付けると、虎徹の意図を悟ったバーナビーは鼻にかかって甘えた子犬のような声を漏らした。 ここがホテルだったら、と歯噛みする思いで、性器同士を小刻みに押し付け、ゆるゆる刺激する。彼はベッドに入る時は下着以外つけない。さすがに車中泊だとそういう訳にもいかなくて、トレーニングウェアにしていたようなハーフパンツを身に着けているから、普段ならもっと近くで熱を感じることができるのにと思うと、もどかしくてたまらない。 --- 「……だから、出るっつってんだろ! 馬鹿バニー!」 「あ、やだ……ふあっ」 脇の下に手を入れ、自分の身体の上を滑らせるようにしてベッドに抱えあげると、バーナビーは魚めいて腰をくねらせ、甘い声を上げる。達しかけたのを堪えたらしく、手のひらで支えた尻がひくんと緊張したのがわかった。 脚に冷たい感触がある。触れ合った肌の隙間から手を入れて上半身を起こさせると、隆起した腹筋と、その下の肉色をした性器を晒したバーナビーは、虎徹の噛みつくような視線から逃げるように恥じらって顔を背ける。 もう何度も、数えるのを放棄するほど身体を重ねた。何度だって何もつけない裸体を見たことがあるし、いやらしいことも沢山教えたのに、そうやってふいに初なところを見せるから、もっといじめて、深くを見たくなるのだった。 「あ、……虎徹さ、ん」 「そのまま」 透明な液体がこぼれて、緩く勃って震えるペニスを伝い、今はまだ慎ましくしている後孔に届くほどだった。潤んだ先端を親指ですくうようにすると、粘液が糸を引くようについてくる。 「ひ、」 「……バニーは俺の、舐めただけでそんなにしてんの、な?」 揶揄する言葉に、瞳の表面が瞬く間に涙で覆われていった。コクンと言葉なく頷く。 「かわいーねえ、お前」 「いつもは、可愛くな、いって……」 「嬉しいだろ?」 「うれしく、うれしくな、あっ。あ、ああっ、そこ、そこだめっ」 久々に嬲った乳首はもうツンと尖って、手のひらに擦られる度くにくにと硬くしこった。 もともとバーナビーは乳首で感じにくいほうで、初めのほう、男同士でのセックスに手探りだった頃は、いじってもただくすぐったそうに笑うばかりだった。 それが、根気よく夜ごと触れて、舐めて、食んでいるうち、いやらしく震える息を吐くようになった。虎徹が作り変えたところのひとつだ。 「ん、んー、ん、」 爪で弾いたら先端を撫でる。乳輪ごと揉んでは肌に押し込むように力を込める。次々と与えられる感覚のギャップにバーナビーは自らの指を噛んで身悶えした。声を堪えようとする懸命の努力だったけれど、それが余計に男を煽ることは、何年経っても理解できないらしい。 「虎徹さん、」 飽きもせず指の腹で転がして、弄っていると、もぞもぞと腰を動かしてねだる。屹立したそこから、涙のように次々と、珠になった精液をこぼしながら。 「虎徹さん、おねがい」 「何を」 「さわ、ってくださ、い」 「触ってるだろ」 「ちが、ちがう、そこじゃ……は、ああっ」
(120810 out)
|