銀河ゆき
34P 400yen



――お前の一番大切なものを頂くぞ。


 シュテルンビルトの治安維持機構は、軍隊・警察・ヒーローの三つに大分される。
 対外国への実力行使を想定した集団である軍隊はひとまず置いておくとして、警察とヒーローとの棲み分けは、ごく微妙な調整を必要とする問題であると言えた。特に警察側からの反感が強いことがその理由だろう。
犯人拘束までの過程を、可能な限りショウアップするように要求されているヒーローたちは、所詮リアルではなくイミテーションであり、事件解決の実績や、市民の信頼といった、おいしいところだけ浚っていくハイエナみたいなやつらだ、いやケーキの上のマジパン飾りだ、綺麗なだけで腹にはたまらないと嘯く警察内部の人間も少なくない。
 それでも、彼らが飛びぬけた強い力を持つことは紛れもない事実であり、それがなおいっそう腹立たしさを煽るのだ。
 そういうわけでヒーローは、基本的に、市民ならびに都市に著しい被害を与える可能性がある凶悪事件にのみ召集されることになっていて、本当であれば、小さい――たとえば今回の案件のような、警察内部の対NEXTチームが出向いて済む程度の――事件には、コールがかかることはないのだった。

 事件のあらましとしては、猟銃を持った中年の男が、若い女性を人質に取って、ブロンズ地区の廃ビルに立てこもった。男は、現場にバーナビーが来るまでは、一切交渉に応じるつもりがないと主張し、それから二時間が経っている。
警察のネゴシエーターが、バーナビーを呼べと言ったきり沈黙している彼の要求をなんとか聞きだそうとしたが、無駄だった。再三の拡声器を使った呼びかけに返答したのは一発の乾いた銃声で、ビルの窓からひょっこりと顔を出した男は、次はない、女に当てると冷静に告げた。
 緊迫した空気が一帯を支配していた。現場指揮官が苦さを噛み潰した声で言う。HEROTVの担当に連絡を取れ。バーナビーを呼び出せ。
 果たして二十分後にバーナビーは現れた。昼日中の事件だったのが幸いし、オフィスに詰めていたおかげでトランスポーターと合流する手間が省けて(インタビューや撮影でオフィス外に出ている時や退社後は、どうしても落ち合うまでにタイムラグができてしまうので)、現場までスムーズに移動することができたのだった。
「こっちへ来い」
 男は女性の首もとを拘束し、猟銃を突きつけたまま要求した。ヒーローの前だというのに、怯えたりひるんだりする様子もなく、堂々としている。
「彼女を放せ」
「それならまず、そのヘルメットを外してもらおうか」
 女性が涙を流してぶるぶる震えているのをバーナビーは横目で見やった。すっかり腰が抜けてしまっているようで、いま解放されてもひとりでの退出は難しいだろう。ここは男に従うふりをして、隙を狙うのが確実だ。
「顔のバイザー部分しか上がらない」
「それで構わない」
「わかった」
 フェイスオープンして、バーナビーの素顔があらわになる。目の位置に外部カメラがついているから、以降の中継画像は天井を映しただけになり、アニエスがモニターの前で悔しさに舌打ちする。
バーナビーは動かない。男の集中の切れたときに、どうにか女性を助け出す方法はないか、ポーカーフェイスの下で何通りもシミュレーションしている。
 男は鍛えている様子もなく非力そうで、この事件の最中、なんらかの能力を見せたという情報はなかった。というか、まず基本的に、パワー系・自然現象を操ることができるなど、犯罪に有利なNEXTを持つ人間は武器に頼らない。男の目的は読めないが、このまましばらく交渉を引き延ばして、緊張が緩んだところで、一気に片をつけてしまおう。
 結果、そのセオリーに従ったことが仇になった。
 男の掌がふいに伸ばされた。血の巡っていないように冷たいそれが、ひたりとバーナビーの頬に触れる。
 場に満ちた静電気のような緊張が、最大限に張り詰め、カメラ越しの映像に、市民はテレビの前で息を呑む。男の濁った目が、バーナビーの双眼を正面から捉えた。
「バーナビー・ブルックスJr。お前の一番大切なものを」男は充血した双眼を猫のように細め、黄ばんだ歯をむき出して、にいと笑んだ。「頂くぞ」
 指先から蛍光ブルーの光が迸る。NEXT発動の証だ。
 光は海のように広がり、バーナビーの目が、真っ向から浴びせられたスパークに眩んだ。バイザーをつけていれば、戦闘の障害になり得る光度は自動で調整されるのだが、それがない今はどうにもならない。
「バニイっ」
 屋上から自分の身体をワイヤーで吊るして、突入のタイミングを今かと伺っていたワイルドタイガーが、勢い飛び込んでくる。彼の突入に合わせ、警官チームもどっと流れこんだ。
 犯人確保。人質に怪我はなし。後ろ手に拘束された男は、鼻血を流しながら、腕で目を覆っているバーナビーを指差して、狂ったように笑っている。悪魔じみた笑い声が、奇妙な音楽のようにいつまでも響いていた。


「条件が揃えば」
 医者が、ペンをくるくる回しながら言った。それが癖らしく、見つめているとしまいには酔いそうで、虎徹はそこから目を逸らす。
 メディカルチェックを終え、今のところ身体に異常はないという結果は出たものの、男の能力に関して、警察側から連絡が入ったのだった。
 男はNEXT管理局への登録もせず、二十台半ばで発現したことをひた隠しにして生きていた。使ったのもこれまでに数回程度だという。
「対象者の一番大切にしている記憶を消し去ることを可能にする能力だそうです」
 直接肌に触れ、目を見つめ、相手の名を呼びながら宣言する。男がバーナビーを指名してきたのは、唯一本名で活動しているからで、ヒーローに復讐できるなら誰でもよかったのだろう。
 犯人の子どもは、一年ほど前の、交通事故の被害者として亡くなっていた。病弱だった妻も、愛児を失ったことでがたりと気落ちして、そのすぐ後を追うように生涯を終えた。身内を立て続けに失くした男は、自分の運命を悲しみ、腹を立て、原因を求め、少しずつおかしくなった。
 もしあの場にヒーローさえいれば、あいつは助かったかもしれない。いいや、助かったはずだ。子どもも、妻も俺は失わずにすんだ。なぜヒーローは来なかった。ヒーローのやつらは俺たちみたいな中産市民を馬鹿にしていやがるんだ。ヒーローが来てさえいれば、あいつは助かった。あいつらのせいだ。あいつらがみんな悪いんだ。
 妄想に憑かれた男は、仕事を無断欠勤し、うちにこもりきりになり、今回の事件を起こしたということだった。
「かわいそうにな」
「確かに不幸なのは認めますが、逆恨みもいいところですね。僕たちが呼ばれなかったということは、僕たちがどうにかできる類の事故じゃなかったんでしょう」バーナビーは辛辣に切って捨てた。怒りに眉がくっきり寄って、深い谷ができている。外だというのにパブリック用の超然とした態度でいる余裕もないらしく、明らかに不機嫌だ。「記憶に干渉されるなんて、屈辱です」
「まあ、うーん……」
 自分以外の人間に甘いところのある虎徹も、かばいきれず言葉を濁す。診察室を出て、駐車場を目指しながらのことだ。
 今日はもう予定もないし、帰っていいと言われているのだった。ロイズさんにも思いやりの心はある。もし被害にあったのが虎徹のほうだったら、こうすんなりとはいかなかったかもしれないけれど。
「だけどバニーの大事にしてる記憶……たってさあ」
「そんなもの本人にしかわからないっていうのに」
「ご両親の記憶は?」
「たぶん欠けはないと思いますけど。もしかすると、すごく小さいことで、忘れたまま一生終わるのかもしれませんね」
「だといいけどな」
 だけど世の中、願っているふうにはうまくいかないものだ。そして、失くした記憶が判明するきっかけは、意外とすぐに訪れた。


 大事をとって虎徹の運転でバーナビーを送っていった。途中のデリに寄って、あれこれと食べ物を買うのも忘れない。虎徹としては、ほかはともかく夜はしっかり米を食べたいところだけれど、負傷(?)者が優先なので、バーナビーの好物ばかり選んでやった。なすはカレー味にするよりさっと焼いて醤油と鰹節がいいし、ブロッコリーはソテーしないでマヨネーズだけで十分なんだけれど、本当は。
 窓の前においてあるリクライニングチェアに互い違いで座るのが常のやりかただったが、今日はバーナビーが自然なふうで床の段差に腰掛けたので、ちょっと不思議に思いながら、虎徹も倣った。
「なー、ダイニングテーブル買おうや」
「そのうちに……気に入ったのがあれば」
 チキンの蜂蜜ソースを頬張りながらバーナビーが言う。肉を食む唇がてらてらと光っているのを見て、違うものを連想した。もう少し深くなった夜のこと。絞った間接照明。シーツの擦れる波の音。
 一度考え出すと、身体の奥で緩い熱が燻りだすのがわかる。欲しくなる。肩に手をかけて、腰から下を密着させると、バーナビーが笑いながら身体を引く。
「虎徹さん、近いですよ。飲みすぎです」
「んー」
 やわらかい小言に構わず、追いかけるようにしてもう一度寄せる。恋人同士だし、夜だ。これくらいの接触、許されてしかるべきだろう。
「ちょっと、虎徹さん」
「心配した……」
 すり、と鼻を首筋に擦り付けて、そのまま唇を寄せて――寄せようとして、どっ、と鈍い衝撃がボディに響いた。近距離を、強い力で思いきり突き飛ばされて、派手に咳き込んだ。
 予想外の展開に、痛む腹を押さえて呆然と見上げれば、爛爛と燃えるバーナビーの目。潤んでもいない、照れているのでもない。言うなれば、嫌悪に満ちたグリーン。
「ちょ、なんだよ、バニー!」
「あなたこそふざけないでくださいっ、なんなんです、どういうつもりですか!」
 虎徹の抗議に、バーナビーは頬を怒りに赤く染めて怒鳴り返した。その声と態度にこそ、ふざけている様子がなにひとつなかったから、虎徹も戸惑って、ハンズアップ。痴漢に間違われた時ってこんな気持ちなのかもしれない、とか思った。
「え、え? どしたの、バニーちゃん、なに怒ってんの、急に」
「どうしたもこうしたも……、信じられない、こんな冗談、見損ないましたよ、虎徹さん」
「じょ、うだんって、何が?」
「とぼけようったってそうはいきません」
「とぼけてねえって。どうしちまったんだよ、お前。やっぱ体調悪ぃの」
 話が全く噛み合っていないのを感じて、二人ははたとお互いを見つめあった。
 ぎこちない沈黙が流れる。意を決したようにこほんとわざとらしく咳払いをして、口火を切ったのはバーナビーのほうだった。
「あの、伺いますけど」
「ど、どうぞ」
「虎徹さんは、どうしてあんなことをしたんですか、僕に」
 うなじをびりびり緊張が走る。息を呑む音すら聞こえそうなくらいの静けさの中、目もとに力を入れて、バーナビー。
「いや、俺たち、付き合ってるし……だろ?」
「そんな訳ないじゃないですか!」
 虎徹が怖々と確認したのを、バーナビーが悲鳴のように叫んで、大きく首を横に振るので、虎徹もむきになって声のヴォリュームを上げる。
「だっ、そんな訳あるって! マジで! マジです!」
「嘘です! 絶対に! 昼にあんなことがあったからって、さすがにそこまでつまらないジョークに引っかかる訳がないでしょう!? 証拠はあるんですか!」
 ご自慢のヘアスタイルを乱して詰め寄られても、一応秘密にしているわけだから(ネイサンあたりは気がついているとは思うけど)、誰かに確認を取ることもできない。
「メールとか……つっても、あんまりしないしな」
「ああ、いいんですよ、冗談だったって認めて謝ってくださっても」
 ほら見たことか、と勝ち誇った顔をするバーナビーに、虎徹の闘争心に火がつくのがわかった。
「じゃあ、俺の着替えがクローゼットに入ってる!」
「そんなの、友人同士でもするんじゃないですか」
「普通の友達は置き着替えとかしません! お前泊まりに来るような友達いないからわかんないんだろ!」
「なっ、今そんなことは関係ないでしょう!」
 もう二人とも肩で息をしていた。大声の出しすぎで喉がいかれそう。バーナビーの住まいが広くて防音のしっかりしたマンションでよかった。虎徹のうちでは大家から苦情が入るのがオチだ。
「あ、あれだ、ベッドサイドのテーブル! ゴムとローションが入ってる、半分ぐらい使ってる!」
 なんとかして決定打を決めてやろう、と頭を捻っていた虎徹が叫ぶのを聞くが早いか、すごい勢いで寝室に駆け込んだバーナビーは、数分のち、青ざめて戻ってきた。
「ほーらみろ、あっただろ?」
「で、でも、あれは……そうだ、僕が女性相手に使ったのかも……」
「そんな覚えあるの、お前」
「ない、です……けど……」
 弱弱しい抵抗を最後に、どうしても認めたくないようにバーナビーは目を伏せて、口ごもった。糸が切れたようにへなへなと座り込み、頭を抱えてしまう。
 それがあまりに憔悴した様子なので、勝利した優越感で得意げにしていた虎徹も、ふとかわいそうがることを思い出した。そういえばバーナビーはNEXTの影響下にあるのだった。この状況は彼の本意ではなく、だけど事実は事実だから、どうしてやることもできない。
「あのさ」
「なんですか」
 バーナビーは疲れたように手足を投げ出して座っていた。背筋を丸めているところなんかめったに見ないから、相当ショックなのだろう。
「バニーは忘れちまってるのかもしれないけど、俺たちは実際、付き合ってたのよ、ほんとに」
「それで?」
「あー、だからー……その、さあ」
「なんなんですか、はっきり言ってください」
「一回やってみたら、お前もわかるんじゃないかなーって……」バーナビーの頭が跳ね上がる。その勢いに一方ならないものを感じて、語尾はふにゃふにゃと失速した。「なーんて、ははは、は……」
「……そんなに蹴られたいんですか、あなた?」
 地の底から響くような声が返ってきた。白く色の失せていた顔が、今度は火をつけたみたいに真っ赤だった。
さすがに現役ヒーローの蹴りを食らって、まともに立っていられるとは思わない。ハンドレッドパワーを使えば五分五分かもしれないけど、能力を使った痴話げんかって、すごく馬鹿馬鹿しい上に、被害状況が尋常じゃない気がする。
 身の危険を感じて後じさると、バーナビーも勢いよく立ち上がった。
「出て行ってください! 出ていけ!」
「ちょ、待てって、落ち着け」
「これが、落ち着いて、いられ、るか!」
 渾身の力でぎゅうぎゅう押し出され、鼻先でぴしゃりとドアが閉まる。数秒のち、外して床に置いていたネクタイが隙間から放り出されて、それからはもう開くことはなかった。
「ていうか、バニーの大事な記憶って、マジでこれ?」
 廊下に尻餅をついたまま、虎徹は眉を下げて、ひとりつぶやいた。どこからも返事はない。ただ高級な、ふかふかのじゅうたんに染み込むだけ。


(120108 out)