バーナビー・ブルックスJr.の恋と冒険 R18
64P 600yen



 脚の怪我の治療を終えて退院し、正式にヒーローを辞して二週間、まず部屋にこもって次々に本を読んだ。フィクション、ノンフィクションは問わなかった。古典、新作、名著から知られざる一冊、国内外の作者、読んだことのないもの中心に、電子端末にダウンロードもしくはオンライン書店から注文し、手当たり次第に。とにかく文章の体をなしていればなんでもよかった。朝から晩まで溺れるように文字を追い、片手間に食事をした。
 活字に飽きると、次は映画だった。無声、トーキー、白黒、カラー、戦争、コメディ、ラブストーリーにSFにサスペンス。撮影された地域も、監督もジャンルもばらばらの映像を、壁いちめんのスクリーンと最新型のオーディオシステムが淀みなく、臨場感たっぷりに再生していった。夜明けから夜更けまで、とり憑かれたように鑑賞し、その隙間に切れ切れの眠りについた。
 次は音楽で、古今東西のクラシックからロックからジャズテクノ民族音楽を、シャワーでも浴びるように聴き続けたあたりで、この一過性の病気にも似た熱が醒めるに至り、ようやっとプライベートで外出してみようかという気にもなった。それまではアポロンメディアや裁判所、また病院あたりをまっすぐ往復する程度で、自発的に部屋を出ることはなかった。
 退院したばかりの頃、ドアの外にごっそり張りついていたひとかたまりの撮影隊は、近く封切られる舞台に主演する女優の熱愛報道のほうにほとんど行ってしまったようで、今はそろって困ったような顔のつくりをした記者たちが、みなおざなりにマイクやカメラを向けてくるばかりだった。
 僕がいつものようにリアクションを取らずに歩いていくと、ポーズとしてついてはきたものの、十歩目くらいで植木の根もとに置かれた飾り人形のように、それぞれどこか眠たげに追跡を止め、立ちつくす。
それを横目で見ながら、僕は考える。――完璧に終わったわけではない。
 そう、なにもかもが片付いたわけでは決してない。
 いくつものわずらわしいがことがら――たとえばヒーローを辞めることについての残務処理とか、マーベリックが関与していた事件についての裁判に参考人として召喚されるだとか――がコーヒーカップの底の宿命的なしみのように残っている。
 それでもとにかく、確かに一区切りはついたのだと、僕は久々にじゅうたん敷きではない地面に足をつけて歩きながら考えた。バイクで出てもよかったが、今日はいい天気だから、太陽の光を全身に惜しみなく感じたかった。そんなことを気にするのもひさびさだった。
 まず行きつけのヘアサロンに向かい、カットとトリートメントを済ませた。担当が、パーマが伸びてきていますね、と気を利かせて聞いてきたが、もう公的にマスコミ媒体に出る必要はない。ヒーローの時ほどきっちりセットする必要はないから、これからはもともとの癖を活かす方向でいきたいと伝え、こざっぱりした気分で店を出る。
 それから帰り道のスーパーマーケットをひとめぐりして、白ぶどうとチーズとピスタチオの入ったサラミを買った。そして部屋に戻り、ワインを飲みながら、指いっぽんでパソコンを操作して、一週間後のフライトチケットと五つ星ホテルのパッケージを予約した。というか、していた。スクリーンに、予約完了の明るい文字が点滅しているのを数秒見つめたところで、我に返って、少しうろたえた。
 ほとんど催眠術にかかったような気持ちで必要事項を埋め、送信ボタンを押していたのだった。まるで夢を見ていたような、自分の意思ではなかったようにも思えた。実際今からキャンセルすることもできるだろうが、僕はしばらくパソコンの前で考えこみ、行ってみるのも悪くないなという結論に達した。
 僕にはきっと、気分転換が必要だ。


 旅行に出ると伝えると、オリエンタルタウンのご実家に戻っている虎徹さんは、大層喜んでくれた。
 僕たちは何日かに一度、近況報告のために電話をする。僕から掛けることもあれば、虎徹さんから掛かってくることもあった。大体は夕食が済んでから、寝酒の合間のことが多い。虎徹さんは楓ちゃんの学校の話や、今手伝っているお兄さんの店の常連客から聞いた話をして、僕はそのとき読んでいるあるいは見ているあるいは聴いている作品の話をしている。
「へえ、バニーちゃん、どういう心境の変化なわけ。ひとり旅なんて」
「何なんでしょう。自分でもよくわからないんです。気がついたらチケットを買っていて」
「なんなの、それ。大丈夫か」
 だけど、四歳からの二十年強を執念めいて復讐に費やしてきた僕が、趣味や娯楽に時間を費やすのはよい傾向だと、虎徹さんはカウンセラーぶって言った。
「お前は楽しいことをもっとたくさん知らなきゃいけないよ」若干酔いの回った声で言う。時々電話口で聞こえる澄んだ高音は、氷とガラスが触れ合うものだろう。まだ夜の早い時間帯だけれど、虎徹さんのふるさとは結構なカントリーサイドだそうだ。なにもかも鮮やかで騒々しいシュテルンビルトとは違い、テレビ番組のチャンネル数も少なく、酒くらいしか娯楽がないらしい。
「どこ行くんだ」
 僕は隣の国の首都に行くこと、昼間ヘアサロンで読んだ雑誌の旅行特集で興味を持ったこと、ここ数週間の本や映画漬けで垣間見たその街の、歴史があって成熟していること、美術館をいくつも見て回るつもりでいること、自分の意思では初めて――スクールトリップなんかでは、どうしても行かざるを得なかったので――シュテルンビルトを離れることなんかを、ワインを舐めながら話した。
「ねえ、一緒に来ますか」
「うーん。バニーちゃんの旅行プランって金かかってそうだからいいや」
 ゼロコンマ、思考のタイムラグが介入する隙のない速さでばっさり断られたのと、言っている意味がよくわからなかったので、僕はいささかむっとした。金がかかるということは、その分相応のサービスを受けることができるということじゃないか。
「そんなことないと思いますけど」
「あるんだよ、一般庶民とセレブとの格の違いってやつが。まあ、ひとりで気楽に楽しんできなさいよ」
「……あなたがそう言うなら無理強いはしませんよ。おやすみなさい」
「おやすみ」
 あまり納得いかないながらも、僕は電話を切って、長いすにだらしなく寝そべった。
 全面のガラス窓から見下ろしたシュテルンビルトの街は、いつもどおりにきらきらしく、イミテーションの宝石を無造作に掴んでばら撒いたように見える。
 のろのろと緩慢な流れ星のように動く宝石群を黙って見ていると、次第に気持ちの高揚してくるのを感じた。一本空けたロゼの酔いが今回ってきただけかもしれなかったけれど。
 そうだ、なんにせよ、人生で初めての観光旅行だ。ウロボロスも、仕事も関係ない、純粋なヴァケーション。楽しまなくては損だ。
 次の電話で、虎徹さんが車で送ってやろうかと言ってくれたけれど断って、空港まではハイヤーを呼ぶことにした。後ろ髪を引かれるような不安と、未知のものへの好奇心を抱え、買ったばかりのぴかぴかした赤いスーツケースをひとつ持って、僕は機上の人になった。


*


 道の両脇には青々した小麦の穂がじゅうたんめいて広がり、永遠のように揺れて、ひっきりなしにざわざわと音をたてていた。遥かむこうには逃げ水が揺らめくだけで、寂しいくらいひと気はなく、車もさっき農作業帰りらしい、泥はねした軽トラックが一台通り過ぎたきりだ。世界中に自分しかいなくなってしまったような、どこか心もとない感じがする。
 この国の太陽は、シュテルンビルトのそれとはまったく別ものなんだろうか。首筋を容赦なく焼く日光に辟易しながら、僕は一歩ずつ足を進める。汗が玉のように滲んで、シャツや髪をしとどに濡らしていった。

「終点!」
 バスに揺られてどれほど経ったろうか、運転手が土地訛りの強い大声で怒鳴って、僕ははっと顔をそちらに向けた。
バックパックツアーを始めてから二つ目の国で、急行バスを乗り継いで移動することを覚えた。特に地方では鉄道網が発達していないことも多い。安価で本数も多く、乗り継ぎもスムーズにいくから、味を占めてよく使うようになっていた。
「でも、終点はここじゃないでしょう」
 いつの間にか乗り合わせた人間はみな降り、車内には僕だけになっていた。運転手にチケットを見せ、向かう予定の街がプリントされているのを示したが、ひげ面の彼はそれを見ようともしなかった。面倒くさそうに、ハエを追うような手振りをする。
「変更になった」
「変更って言ったって、ここはどこで、次の便はいつ来るんですか」
「あのな、兄ちゃん。降りんのか、それとも降りないつもりか」
 いつまでもごねるつもりなら、こっちにも準備があるんだ。腕の筋肉を見せびらかすようにした運転手に、それ以上言うことはなかった。彼は苛立っていて、彼の言うところによれば、僕は降りなければいけない。それが全てだ。僕が本気の十分の一の力で、彼の拳を押さえ込めるにしたって。降参の身振りをして、タラップを降りた。ドアが閉まるか閉まらないかのところで、バスは乱暴に走り去っていった。
 降車させられた道のわきには、簡単な風除けとバス停であることを示す標識があったが、時刻表はなく、そもそもこの国で乗り物に時間通りの運行を求めるのはばかげた話だと、ここ数日でわかっていたので特に落胆することはない。ただここがどこかわからないのには困った。頼みの綱のタブレットも、あいにく電池切れだ。
 幸いハンドレッドパワーがあるし、跳ぶのもありだとは思うのだが、なにぶん目的地までの距離がわからないから無駄打ちはできない。とりあえず歩くしかない、ということに気がついて、僕はしばらく呆然とした。
 目の前にはただひたすら地平へ向かって延びる道があり、終わりは見えなかった。黄色のレンガの道ならエメラルドの街に続くけれど、熱した鉄板のように足裏を炙るひび割れたアスファルトの車道は、一体どこへ繋がっているのだろう。おまけに靴は魔法使いから手に入れたのでも、銀色でもない、ただの砂色をしたショートブーツだ。
 よく履いていたロングブーツは旅向きではないので、スーツケースと一緒に自宅へ送った。不在中はハウスキーパーを週に一度頼んであるから、受け取ってシューズボックスにしまってくれていると思う。
 スーツケースはこのあたりに多い石畳を転がすには邪魔なので、大きめのバックパックを買った。レッドとブラックのツートン。洋服も減らせるだけ減らして、ボトムス三本と長袖のシャツが二枚、Tシャツが六枚。持ち歩いているボトルのシャンプーでみんな一緒くたに洗う。ずいぶん身軽になったものだ。


*


 彼が初めて現れたのは、国ざかいを越える電車でのことだった。
 一等のコンパートメントはシートがしっかりしていて座りやすい。始発の駅からは僕しか乗り込まなかったので、思う存分足を伸ばして、人目を憚らずリラックスすることができた。
 市街地を車と併走し、うさぎや馬のいる草地を抜けると、列車の窓の外に流れる景色は闇色の森ばかりになってきた。昼だというのに暗暗としていて、にわかに雨まで降り始める。
 憂鬱な気持ちになり、ふと車内に向き直ると、隣にきちんと紺色のブレザーを着込んだ幼児が座っていた。そのときまでコンパートメントには、確かに僕ひとりだったのに。
 親とはぐれた子か、季節はずれのクリスマスの亡霊かと思ったが、果たしてそれは四歳の頃の自分だった。細い首に巻かれた、チェックのマフラーに見覚えがあった。
「あなたはまるで逃げるみたいに旅をしている」
 彼はまったく四歳児らしからぬ口調で言った。
「逃げたって結局、いつかは向き合わなきゃいけないんだ、そして絶望しなきゃいけない、必ず」
 僕が驚きに目を丸くし、口も利けずにいると、彼はいやなやり方でにやりと笑った。
「図星ですか」
「何のことだ」
「しらばっくれて。罪を背負ったら罰を受けなくちゃいけない。そうでしょう」
 これは魂の取引をするために現れた悪魔の仮の姿、あるいは白昼夢の類だろうか。僕は魔法でも使ったように忽如として現れた子どもをじっと見つめながら考えた。それとももしかすると、知らぬ間に育っていた脳腫瘍が神経を圧迫して、幻覚を見ているのかもしれない。次の街に着いたら早急に病院にかかって、精密検査を受けなくては。
 そう思う一方、これはそういうものではないと、僕ははっきりとわかっていた。頭がおかしくなったわけではない。つまり彼は、僕の深層心理、過去の亡霊というやつだ。可視できている理由はよくわからないけれど、それが正しいことなのだと、僕は本能で理解していた。
「バックパックツアーなんて。お前らしくない、バーナビー・ブルックスJr.。お前は贅沢好きで、がちがちに計画を立てなければ、万事満足にものごとを進められない。おまけに軽く潔癖症。安ホテルに泊まる生活に満足できるわけがないのに」
 子どもの嘲るような口ぶりを聞きながら、虎徹さんにも似たようなことを言われたな、と思い出していた。


*


「でもバニーちゃんがあんまり気持ちよさそうにしてくれるから、おじさんもテンション上がっちゃって。むしろちょっと痛いぐらい」
 見てみな、と誘導されるままに送った目線の先には、太いそれがしっかりと反り返り、天を向いていた。
「あ、そ、そうですね」
「触る?」
「……さわ、ります」
 今度は虎徹さんが胡坐をかき、膝をついた僕が内股の筋肉を使って、軽く腰を浮かせる格好になる。
 指を輪にして、赤黒くそそりたつ屹立の根もとを握ると、彼が喉で笑う。
「バニーちゃんいつもそういうやりかたすんの?」
「そういうの、やめてください……」
 そこは熱く脈打ち、血管がはっきりわかるほど浮いていた。輪を軽く上下に動かすと、虎徹さんのそれがぴく、と動いて、彼もいいのだとわかった。ただ湿り気が足りなくて、顔を近づけ、舌を伝わせて唾液を垂らす。
「うっわ……エッロい……」
「あなただってさっき、舐めたじゃないですか」
「それとこれとは別だろ……う、あー……いいわそれ、もうちょっと速く、っ」
 褒められると嬉しく、もっと気持ちよくなって欲しくて、いろいろと試した。結果、先の一度くびれたところのすぐ下辺りを短く擦られるのが好きらしいとわかって、そこばかり夢中になっていると、ふいに全く知らない衝撃が背骨を駆け上って、身体中びくびく強張る。
「えっ、あっ、何、何でそんなっ、あ! ああっ!」
「お返し……」
「あっ、あっ、やめて、嫌だ、いや……」
 いつの間にか後ろに忍んでいた片手が、無遠慮に孔を割りひらいていく。もうひくついて待ちわびていたそこの、収縮する筋肉が、奥へ、奥へとくじる濡れた指に浅ましくしゃぶりついていく。
「あっ、いやっ、だめ、虎徹さんだめっ、そこだめっ」
「駄目じゃないって、だいじょぶ」
 ぬぽっぬぽっといやらしい水音がする。耳をふさぎたいのに、全身から力が抜けていて、指一本動かせないのだ。
「や、だめ、だめ、駄目です、ん、あんっ、だめ」
「いいって言ってみ」
「うーっ、ん……んっ……あっ、あう」
「バニー、いい。いいよな」
「い、あぁっ、あっ、い、っ! あっ!」
「かーわい」
 僕が声を上げるタイミングに合わせて、埋まった指が楽器でも弾くように動くから、あなた本当に言わせる気があるのかと言いたいくらいだ。絶対に言わないけど。
 指はやがて二本に増え、揉み、つまんで、快楽を引きずり出そうと不規則に動く。優しく蹂躙されていく。身体の中に、それも普段は外気に触れることがない深い場所に、自分のものではない異物を入れられて、一息ごとに作り変えられていく。
 手はやがて前にも絡み付いて射精を促し、びうっ、と第一波、しごいてくる手の中に出した。続けて二波、かよわい三波。こもった聴覚で、血が血管を流れていく、強い風のような音だけ聞いていた。
「いっぱい出たなあ」
「あ、すみません……僕だけ……」
 だるくてほとんど動かない身体を、なんとか持ち上げようと格闘していると、ベッドサイドのティッシュで手を拭った虎徹さんがその動きをとどめた。
「ん、いいよお。おじさんは今からよくしてもらうんだから」
 あんまりあけすけな言い方に二の句が告げなくなっていると、くるりと裏返され、膝をついた四つんばいにさせられた。彼からは何もかも見えている。信じられない、動物のそれみたいな格好に、羞恥で耳まで血が上るのがわかったが、それも虎徹さんのペニスが、ひたりと孔のふちに添えられると、どうでもよくなってしまうのだ。ひくひく収縮しているのがわかる。早く欲しい、今すぐ欲しいとねだり、押し当てられた先端に何度もくちづけている。
「いいな?」
 小さく頷いたら、許せよ、とかすかに聞こえた気がした。


(120115 out)