今日泊まり来いよ。すれ違いざまそうして耳元で吹き込まれると、雲雀はどうしてお前の言うなりにならなくちゃいけないんだと、柄にもなく怒鳴ってやりたいような、腹立たしい気持ちになるのだった。そしてしかし、断ることもせず、反論もせずに訪問する自分自身も、求められれば体を明け渡す商売女のようで不愉快で、本当は今すぐにでも踵を返してしまいたい。借り物の、少し肩が落ちたスウェットの上下と、腕に抱えた入浴セットだけが雲雀をこの場に繋ぎとめていた。雲雀は傍若無人な振る舞いとは裏腹に、礼儀の正しい人間だので。くっきりと湯のにおいのする銭湯の壁に凭れて、目の前の川の流れをじっと聞いていた。
「あ、いた。外で待つなよ、せっかく風呂入ったのに冷えたら意味ないじゃん」
「誰のせいだと思ってるの」
「え、俺?」
「……もういい」
 きょとんと目を見開いた山本に洗面器を押しつける。馬鹿になったみたいだった。この男といると自分のペースが悉く狂いだす。不快だ、不快だ。ああ、不快だ。だけど胸に蟠る澱みをうまく言語化できなくて、結局黙り込む。腹立たしい。ぎゅっと唇を噛んで俯くと、山本の荒れた手指が顎を捕らえた。肉刺が乾いた唇の皮に引っ掛かる。抉じ開けるでもなく人差し指がそのラインをなぞった。こんなふうにべたべたと、指紋をなするように触られるのは好きじゃない。特に風呂のあとは。放せ、の形に口を開いた時だ。
「髪、冷てー」
 根元に指を差し入れられ、くしゃりと握られる。そんな仕草一つでまた何も言えなくなる自分を、雲雀は殺してやりたいと思った。石鹸が互いの間、洗面器のなかでちいさく音を立てる。



(100720)