ドアを開けると、尖ったナイフじみた空気が肺に滑り込んでくる。その思いがけない冷たさに、匪口は震えて、少し咽せた。樋のむこうの空は紺青で、夜と朝の狭間で街は、静かに息を潜めている。
 祖父の遺産は、父母の生命保険を足せば、匪口一人がつつましく生活するのに十分なくらい残っていた。皮肉ながら、ネットで金を稼ぐことができる技能があった。社会の保護管理下に置かれて数年、やっとこの古家を出ていくことができるのだ。
 そうだ、逃げるんじゃない。出ていくだけだ。もう一生帰らないけれど。職を得た。本籍も移した。荷物も送った。賑やかさに惹かれて借りた引越し先のマンションからは、駅まで歩いて七分、道すがらにコンビニと二十四時間営業のスーパーがあって、足りないものはすぐに揃ってしまう。このぼろアパートとはえらい違いで、ただ、新しい空間を、自分で拓いていくのはなんとなく気がひけた。新しい部屋にないものは、たぶん、これからの一生かけても、きっと手に入らないからだろう。
 欲しかった空気はここにしかない。粉ミルクじみた思い出のにおい。湯気の立つ夕餉のテーブルの情景。自分を待つ窓から漏れ出る明かり。本当にあったのかも思い出せないような、リアルな腕の感触。
 匪口は首を振って、スニーカーの紐をぎゅっと結びなおす。少し気を抜くと、かんかんとそっけない音を立てる階段を忍び足で下りて、封筒に入れた鍵を、大家のうちのポストに落とした。
(寒……)
 巻きつけたマフラーの中に鼻先を埋めて、背筋を伸ばして、震える毛先を宥めるように大きく息を吸い込んだ。挑むように一歩、踏み出した歩幅が、だんだん広くなっていく。過ぎていく街並みを焼き付けないように歩調を速める。最後には駆け足で。
 さよなら子供時代。俺は今日から大人になります。どうしてもこらえきれずに振り向いたアパートは朝靄で霞んでいる。それでいい、はっきり見えたらきっと泣いてた。




(100721)