昼間に舞流から電話がかかってきて今晩会えないかと聞くので、約束の時間にマンションのオートロックを開けてみると、案の定ふたりともが訪ねて来ていた。そこまでは予想の範囲内だったが、スーツを着た舞流に続いて部屋に上がってきた九瑠璃の、ワンピースの腹が風船を入れたように丸く膨らんでいたので、臨也は書類整理の手を止めて、まじまじとそこを凝視した。
「あっイザ兄知らなかった?クル姉、お母さんになったんだよねっ」
「……八月……」
「はあ」
 妹たちはきゃっきゃと盛り上がっている。結婚したという話は聞いていないけれど。八月に出産となると、もう数ヶ月前からこんな状態だったに違いないが、その姿に覚えはない。情報屋の名折れである。そういえば最近会っていなかったな、と電話を切ったあとうっすら思いはしたが、そんなに長い間だったのだろうか。だったのだろう。
 妹たちは高校を出ると、あのばかばかしいごっこ遊びをぱたりとやめてしまった。九瑠璃は髪を伸ばして、舞流は眼鏡を外し、普段着を色違いで揃えるのをやめると、彼女らの少女時代の面影は、その妙にはしゃいだ口調くらいのものだった。あっけなく、なくなってしまった。
「クル姉は座っててね、飲みもの持ってくるから」
 よろけるようにしてソファに座ると、身体を重そうにしながら右隣に九瑠璃がかけた。細身な身体の、腹だけぽこりと出っ張っているのが、昔妹たちに読み聞かせた絵本の挿絵の、かえるのお母さんのようで、滑稽だ。じっと黒目がちな目で見上げてくるので、何かと思えば、臨也の手を取って、自分の腹に導くのだった。触れるか触れないかのうちに、その丸々とした腹の内側から、ぼんと衝撃が伝わってきて、臨也はびくっと肩をいからせた。九瑠璃がそれを見て少し笑う。
「……女子……」
「へえ。おめでとう」
「そんなんじゃダメだよーイザ兄、言葉だけじゃ気持ちって伝わらないよ」
 具体的にはハグとかキスとか? もっと先までいってもいいんだけど、クル姉妊婦さんだしちょっとまずいかな? とけたけた笑っている舞流の手には、盆に乗ったグラスが三つ、汗をかいている。彼女らが高校生のとき、今よりもっと頻繁に仕事場や自宅に来ていたときは、当然のように自分らの分しか用意しなかった。
 臨也と九瑠璃がグラスを受け取ると、舞流は臨也の左隣に腰を下ろした。左右から違うシャンプーの匂いがするので、嗅覚が混乱した。アイスティーをすすると、それは臨也の好みより甘すぎて、味覚までこんがらかって、臨也は頭をゆっくりと振った。 「それで何しに来たの、お前ら」 「んー? これからしばらく会えないから、イザ兄の顔見に来たんだよ」
「……会……無……」
「私たち、仕事の関係で来月から海外に住むんだ」
「え」
 間の抜けた声が出た。手の中のグラスがぬるぬると滑るので、机の上に置いた。普段から表情のバリエーションが少ない九瑠璃はともかく、舞流も真顔だった。
「帝人先輩がアメリカに支社を出したのは知ってるでしょ? そこにいくの。何年か帰ってこられないみたい」
 そうだ。竜ヶ峰帝人が高校を出てすぐに設立した会社は、この度ダラスだかサンフランシスコだか、デトロイトだか、その辺りに拠点を構えることになったらしい。そこのトップに立つのは帝人の優秀なブレーンで、それが妹たちの恋人であることも、折原臨也は知っていた。それにあたって移動する人間のリストもとうの前に手に入れていたのに、自分の妹がそこに入っていることを、今まで実感として認識していなかったことを、臨也は知った。
「向こうの特産品、送ってあげる。オレンジとか、アメリカンチェリーとか」
「やめとけ。俺一人じゃ腐らせる」
「ね、イザ兄、寂しくなっちゃうね」
「ああ」
 舞流は話の流れを全く無視して臨也を覗き込んだが、臨也は珍しく素直に頷いた。
「……池袋……人……減……」
「ああ」
 九瑠璃の言葉にも、頷いた。確かに、ここ何年かの間で、彼の旧知の人間が、次々と池袋から姿を消していたからだった。池袋はこどもの町、と言ったのは誰だったか、臨也の記憶からはすっぽり抜け落ちてしまっていたが、いつかに聞いたその言葉は、臨也の脳みそのしわの間にしっかりと入り込んでいた。彼らは、誰かの言葉を借りるなら、大人の町、たとえば銀座や、六本木や、青山なんかに住居や仕事場を移していった。あの忌々しい平和島静雄でさえ、取立ての仕事の上役の、日本人だか外国人だかよくわからない名前の男に連れられて、今は月島あたりにいるらしい。
 池袋はこどもの町。大人が出入りする町ではないのだ。
「もう一回腹に触ってもいいか」
「……可……」
「あっずるい、私も触ろ」
 妹たちすらもずいぶん遠くに行ってしまったように思えて、臨也は目を細めた。会わない間に腹や乳を膨らませ、制服のハイソックスや、少女性や、二次関数や、そういうものから離れ、海を渡って、遠くへ行く。血の繋がった妹も。
 妹の腹の中で息をしているこどもは、その足で池袋を踏むことはあるのだろうか、と思った。まだ池袋を知らないその子が、自分みたいに歪んでしまわなければいいと思うぐらいの思慮を、臨也はこの年齢になるまでの過程で拾ってきていた。
「イザ兄、このこと会えるといいね、いつか」
「……見……来……」
 ふたりは大真面目に臨也の顔を見ていた。
「そうだな」
 返事をしながら、臨也は自分が東京に、池袋に、執着する意味を考えた。そして自分は、長い間通ううち、池袋と血が繋がってしまったのだろう、と臨也は結論付けた。何度も血を流すうち、その絶えない傷を哀れんだ池袋という子宮の中で育まれ、産まれなおしてしまったから、母と離れがたいこどものように、いつまでも自分ひとり留まったまま、こどもの心を捨てられない。




(100522)