「かわいそうな人」
 雨垂れの最初の一粒めいてぽつりと落ちた波江の言葉に、臨也は大げさに眉を吊り上げて見せた。
 大きな窓の向こうへ、絵はがきのように燃える新宿の夕焼けが広がっていた。
 茜色をしたガラスの上に、椅子にかけた臨也と、書架の整理をしている波江がそれぞれ被さって、版ずれしたポスターのようにも見える。
「今の話にかわいそうがられるべきところなんてあったかな」
 自分にそういう感情が向けられた経験が、臨也にはほとんどなかった。かわいそうがるのはいつも臨也の方だったのだ。
 とりあえず笑顔を崩さないままカップを振って、空であることを示すと、波江はまばたき一つせずそれを取り上げ、キッチンへ向かった。その後姿を臨也はじろじろと遠慮なく観察した。
 背筋のぴんと伸びた女だ。そして、造形といい、所作といい、白磁の人形のような女である。冷たい陶器の手触りの、冬に似た白さが、髪の毛が片方に寄せられているせいであらわになったうなじから香っている。
 臨也が特に気に入っているのは、その形よく薄い唇だった。いつもきりりと結ばれているそれの、必要最低限しか動かない無駄のなさが、よかった。冷ややかな肌色の中で、唯一のアクセサリーのように鮮やかな色をしている。
 それにしても、弟以外のことは自身にすら興味がなく、余計なことを言わない質の波江が、感想めいた意見を述べるのはずいぶん珍しいことだった。
 臨也の興味はふつふつと煮立ち、新しい紅茶の入ったカップを受け取りながら欠けもなく微笑んだ。
「告白したことも振られたこともないなんて自慢にならない」
「それなら俺はすごく幸せなのかもね」
 しゃあしゃあと言ってのけ、臨也はワークチェアからすらりと伸びた長い脚を組み換える。
 背中から呆れたといわんばかりのため息の聞こえるのは、マウスに手を伸ばすことで黙殺した。
 波江の言うとおり、臨也はこれまでの人生上、恋愛関係において劣勢に立ったことがない。
 女たちは誘蛾灯に群がるように、勝手に臨也に恋をして擦り寄ってきたから、臨也はその中から見目のよくてできるだけ面倒の少なそうなのを適当に選んで、満足のいくまで弄り回し、飽きたところで捨てればよかった。子供の玩具のようなものだった。成長に応じて取り替えましょう。臨也は気の赴くまま、言葉通り女で遊んだ。
 もとより色恋沙汰に興味があるわけでなし、趣味の一環、性欲処理や気分転換の方法というスタンスだったから、当然のことかもしれなかった。
「それで?」
「それをさもいいことみたいに言うから、思ったことを言っただけよ」
 波江の口調は淡々としていたが、ダーツの矢に似ていた。鋭く尖っている。
 ただし、それはいつものことだったので、慣れきった臨也には刺さらない。
 無造作に掴み捨て、生真面目な表情を浮かべて首を傾げる。そうすると、整った顔立ちのために、彼はとても清らかに、汚れないように見える。
「それがどうしてかわいそうなわけ」
 すると波江はふんと鼻を鳴らし、勝ち誇った顔をした。
「呆れた男。愛を知らないのね」
「愛を知らない、ねえ。波江さんがそんな詩的なこと言うなんて、知らなかったなあ」
「やめて。詩なんて役にたたないものと同じにしないで頂戴。愛はもっと実際的なものよ」
 詩でお腹がふくれるかしら? 詩のために他人を殺せる? 詩に命を捧げられる?
 彼女はらしくなく、妙に力のこもった調子で言ったが、愛のためであってもそれができるのは、ごく一部の人間だけではないかと臨也は思いながら、爪をいじった。
「あなた、誰かを好きになったことがないでしょう。心の底から愛したことがないでしょう。だからかわいそうだって言うのよ。愛のない人生ほど無意味なものはないわ」
「無意味! ひどいなあ、雇い主に向かって」
「そうかしら。少なくとも無駄に浪費しているのは確かじゃない?」
 呆れたと言わんばかりの調子だった。
 そうやって袈裟懸けに切り捨てられてはたまったもんじゃない。
 お返しとばかりに鼻で笑ってみせながら、臨也は腹の奥が焦げ付くような落ち着かなさを感じていた。
「だけど……俺は人を愛してる」
 無理に言い返してみたが、鋭い横睨みひとつで殺される。
「博愛なんて。愛はそんなに薄っぺらいものじゃないわ」
 好奇心は猫を殺す。やれやれと大人ぶって肩をすくめたが、臨也は、この話題に踏み込んだことに、薄く後悔を感じていた。
 得意にしているシニカルな笑みは、今日に限って留守にしているようだった。
「恋をしなさい。愛を知りなさい。折原臨也」
 そうしてすっかり面食らって、表情を無くした臨也に向かって、教師のように、真面目くさって波江は言うのだった。
 臨也は静かに、デスクの側に立つ波江を振りあおいだ。
 ふだん冷え冷えと結ばれた唇、臨也の持たないもの、知らないものを、滔々と語る女の唇が、夕焼けの照り返しのせいで、少女めいて赤かった。
 誰かのものと挿げ替えたように滑らかに動くそれを見たとき、彼には、目の前にいる女が、自分の知る矢霧波江ではなく、見知った女の皮を被った、なんとも得体の知れないように思えたのだった。
 臨也は椅子に座ったまま、猫のように、ぶるりと一度大きく身体を震わせた。
「じゃあそれってどういうものだか、波江さんが教えてくれよ」
「嫌よ。あら、5時だわ……カップは自分で洗って」
「ああ、はい。さようなら」
 魔法が解けたように、二人は動き出した。
 波江は拠点にしているというホテルの一室に帰っていったので、陽が落ちた一人の部屋で、臨也はさっきのやり取りを、何度もゆっくりとなぞった。
 臨也と同じように、波江もやはり無表情だった。
 だけれど、彼女の真一文字に結ばれた唇の下には、愛しい人へ贈られるべき言葉が埋もれ、飛び立つ時を待っている。
 それが彼らの違いの一部始終だった。




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