気配を感じて目覚めると、ベッドサイドに人が立っていた。
 朧な佇まい、つまらないバーテン服の白いシャツと金髪、ブラインドの下りた暗い部屋に煙草の炎がゆらりゆらりと点滅している。
「シズちゃん何やって、」
 咄嗟に枕下のナイフを掴んで飛び起きると、小ぶりの食パンほどある手で額ごと頭を掴まれて、ベッドに押し戻された。
「そのままでいい」
 手のひらにも、その声にも、いつものような殺意は感じられない。ただじっとりと抗えない重力があるだけだ。
 とりあえずベッドランプをつけようと手を伸ばすと、それも押さえられた。
 寝起きじゃなければもう少しマシに動けるのにと思うと、この状況の訳のわからなさと焦り、腹立ちがどっと押し寄せて、ぎちぎちと硬質なものが擦れる音が聞こえ、なにかと思えば俺の歯が噛み合わさって鳴っているのだった。
「動くなって」
「……何さシズちゃん、こんな夜中に奇襲?それとも女っ気があんまりないのを憂いてとうとうホモに走ったってわけ?あいにく俺は性欲処理には困ってないから、折角来てもらって悪いけど他を当たりなよ」
 俺は苛々を隠さないまま声を荒げたけれど、息継ぎのタイミングでシズちゃんが、のっそりと口を開いて俺の名前を大儀そうに呼ぶと、勢いを削がれて続きを紡げなくなってしまった。臨也ぁ。その3文字半は俺の闘争心に水をぶっかけて鎮火させ、シズちゃんは俺の身体から力の抜けるのを待つようにゆっくりと喋り始める。
「臨也。手前は本物の阿呆だ。変わってるっつうのは、別に良いことなんかじゃねぇよ」
 靴はサイズがなくて取り寄せばっかだから値ぇ張るし、ガタイやらのせいで欲しくもねえのに喧嘩は押し売りされるし、マトモな仕事にも就けねえしな。
 紫煙をふかして、ふっと笑うシズちゃん。
 その笑みはこいつと出会ってこの方見たことのないタイプ、ジャンルで言えば柔和科優しげ目に分類されていいものだ。
 しかしその時俺は、ありえない表情を見たことより、阿呆だと言われたことの方に、ぽかんとしていたのだった。
 シズちゃんに、あの脳味噌の果てまで筋肉バカのシズちゃんに、阿呆って言われた。
 こめかみを拳で殴られたようなショックが、俺の頭から正常な選択肢をいくつか振るい落とした。
 つまり、シズちゃんその顔本気でキモいと減らず口を叩いたり、もう一方の手で握りこんであったナイフで即座にブッ刺したり。化け物だし刺さんないけど。
「あー、いや、でも俺だって、別にまともな仕事じゃない、し……」
 柄にもなく――自分でもわかってる――口ごもりながらも反論したけど、シズちゃんは相変わらず表情を落っことしたまま首を振る。
「根本が違う。手前は真っ当じゃない仕事を自分で選んだ。俺はそういう仕事しか選べない」
 手前は選ばないとフィクションの世界に行けない。だから周りに「普通じゃない」人間を置いて、そいつらをかき回して支配下に置いて、それで自分も特別だと思い込むんだよな。でもな。
 そこで息をついで、ちらりと唇を舐め、湿らせる。言葉を選ぶ、永遠に似た間。
「なあ、気がつけよ。なんつーか、な、手前は普通なんだよ、臨也」
 そしてシズちゃんは、あっさりと永遠をブチ破るにふさわしい強かな一撃を放った。正直、自販機がブッ飛んでくるより俺の脳幹を揺らす一言だった。
 しばらくぼうっとサングラスの奥にある目を眺めていた。色ガラスの下の目は、今日は凪いで温度が無く、背筋が薄ら寒くなる。
 ブルリと一度大きく震えると、おい、大丈夫か、と相変わらず低温のままの声が問いかけてきた。
「あ、うん。続けて」
「そうか」
 およそ八年間に及ぶ付き合いの中で正常に対峙するという状況が、逆に異常だ。
 シズちゃんは俺に大丈夫かなんて聞いたことない。
 高校の時はこいつとの喧嘩で何回か骨折ったなあ、その時はニヤアと笑って「折れた骨に内側から刺されて死ね」って言われたっけ。意味わかんないし。
 まあ、そんなシズちゃんがあんまりありふれた対応を俺に、ここ重要、俺に、おーれーにね、してくるものだから、俺もついテンプレート通りに当たりさわりない返事をしてしまうのだけど、その間にも少しずつ違和感が積もって布団とシーツの間を埋め、俺の息はだんだん浅くなり、身動きが取れなくなっていく。
「きっぱり足洗ってスーツ着て生きてきゃ、手前はただの一般人だ。クソみたいな性格はさて置いて、ツラがいい、頭がいい、そういうのは付加価値になるだろうが。だけど俺たちはそうじゃない。手前みたいな奴らの手で、いつでも弄ばれて排斥されて、周りから浮いたまま生きていかなきゃいけないんだ」
 息が浅くなっていくのを止める方法がわからないまま、小難しい語彙を自在に使って喋る、シズちゃんをぼうっと見上げるしかできなかった。
「なあ臨也、俺は手前が羨ましいよ。普通って言うのはどういう気分だ?」
「……ずいぶんわかったようなクチ聞いてくれるじゃん、シズちゃんの癖に」
 シズちゃんが俺を羨ましがるなんて、きっとかなり気分がいいことだろう。
 だからこんなシチュエーションで言われるべき台詞じゃない。
 もっと俺を讃えて高めて奉って、激怒でも絶望でもなんでもいい、感情を迸らせて、地面に這いつくばった世界一情けない状態で、俺に命の手綱を握られながら発されるべきなのだ。
 一度収まった感情の揺らめきが俺の中でまた息を吹き返し、はらわたの隣り合う輪郭を明確に描き出す。
 なあ、俺たち、と自称するシズちゃん。特別性であるところのシズちゃん。その言葉でお前は俺を、お前の世界からはじき出していることに、気がついていないのだろうか。
「邪魔したな」
 とうとう酸素が薄く、はあはあと口で息をしながら言い返す俺に目もくれず、シズちゃんは背を向けた。
 ドアの向こうは薄暗く、すぐにでかい身体は隠れてしまう。待てよと叫んだつもりなのに、空気が喉に粘りついてゆっくりと気を失った。
 ドアの向こうに俺は行けない。


 次に目を開けたら、身体中に冷たい寝汗をかいていた。髪までびっしょり濡れて、心臓が痛いぐらいに肋骨を叩いている。
「……何だったんだ」
 渇ききった喉で小さく呟くと、それをきっかけに、内臓がふざけた勢いで競りあがってくる。
 俺はマラソン大会よろしく寝室を飛び出してトイレに駆け込むと便器に縋りつき、一瞬のち、げえ、と音をたてて、胃の中のものをみんな吐き戻した。
 口をゆすいで部屋をチェックしても、どこからも煙草の匂いはしなかったし、シズちゃんの進入経路だろう玄関ドアは昨日寝る前のままきちんとチェーンロックをしてあった。
 まだ夢の中にいるのでなければ、ドアはねじ切れてもないまま存在感を保って、外の冷たい空気から俺を遮断している。
 遠くで警報音じみた救急車の音、そしてまだ朝は来ない。
 一応チェックした(あいつなら昇ってくるかもしれないよね、恐ろしいことに)ベランダのガラス戸の向こうには、新宿のジオラマめいた街景と、薄ぼんやりした夜明け前の、不完全な暗さが広がっている。
 もう寝付けないのに腹が立って、ソファに丸まった。蛹のように丸まって目をつぶる。夢からは逃げられないのにね。わかっている。馬鹿げている。



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