今日、ホモのオッサンに一時間三万で買われた。 好奇心がちょっと、三人ほど声を掛けた女の子と悉くカップル不成立で退屈だったせいもある。 さすがに本番まではやばいっしょ、ってことで、触って、舐めるまで、俺は何もしないでいいならという条件付き、だけどオッサンはあっさりそれを呑んで、君かわいいからちょっと多めに出すよと俺の二の腕を撫でた。 ざらりと砂が擦れるような感触がして、俺はその瞬間オーケーしたのを後悔して舌打ちしそうになったけど、オッサンはテカテカ光る顔を喜色で一杯にして、嬉しそうにサンシャイン60通りを裏道に抜けていく。 シティホテルの一室で卵の殻でも剥くように服を脱がされ、俺は商品になった。 実際、ベルトコンベアに乗せられて工場を流れていくような感じ。 ベッドの上でふと気がついたら事は終わっていて、全身にナメクジが這ったような不快さと、半分に折られた万札が三枚ベッドサイドテーブルに残っていた。オッサンはいなかった。そういえば先に出るねと言われた気もする。忘れた。 寝ていたわけでもないのに頭が妙にぼうっとして、空あくびが出た。続けざまに二回。頭を掻いて戻しかけた手のひら手の甲にぬめるものを感じて、つづう、と粘液様のそれが、手首を伝ってひじの内側まで流れていく。 暗い部屋でなんとなく鼻に寄せれば、つんと青臭いにおいがして、吐き戻しそうになった。何で人間は未知のものに触れるとき、匂いを嗅いでしまうのかね。 ともかく慌てて風呂場に飛び込んで、シャワーのコックをいっぱいに捻る。 バスタブに座り込んだまま、頭から熱い湯を被った。 熱すぎる気もするけどどうしようもなく被る。 タオルをタオル掛けから引きずり落として、あるだけのシャワージェルをぶちまけると、透明なみどりの液体が広がって世界の終わりじみている。 ひたすらタオルを肌に押し当てて、ごしごしごしごし磨き続ける。 今思うとあれは洗うなんてモンじゃなかったね。俺の肌はまだ熱と摩擦で真っ赤。 痛いのかかゆいのかわからないけど、体の表面にぶよぶよとしたオッサンの脂肪が膜を作っているようで、最高に気持ち悪くて長い間そうしていた。 ざあああああああ、ざああああああああああああ、水音が鼓膜を犯す。もっとやってくれ、洗い流して欲しい。ざあああああああ、ざああああああああああああ、熱い水滴がそのまま雨になった。 池袋の雨に身を浸す。春のぬるんだ空気に似合う冷たい雨だ。 こんな日は女の子のベッドでつま先までぬくぬくあっためてもらうのが一番なんだけど、生憎そういう気分でもない。 コンビニで買ったビニ傘をくるりと回してネオンの下を歩く。 三万円はホテルへのチップ代わりに置いてきたので(嘘です服着て出たら忘れてきちゃいました、正臣うっかり)傘を買ったら所持金はゼロに限りなく近づいた。 真っ直ぐうちに帰るしかないのに、そうするのも嫌だった。 ざあああああああ、ざああああああああああああ、ああ煩い煩い。止まないノイズのせいで上手く感覚がつかめず、何度も人や物にぶつかった。 一人の部屋ではあの音が、水の音が、きっと耳から離れない。夜の中で一人きり、どこへも行けない。 そしてこんな時に一番会いたくない人が、蛇のような笑顔を浮かべて、ビルとビルの間の暗闇に浮かび上がっていた。 濡れ羽の黒髪、傘も差さずにコートのフードを被った線の細い立ち姿。 男の形をした影は、ひょいと気さくに手を上げて隙間から抜け出ると、俺の行く道を通せんぼする。通行人が面倒そうに俺たちをよけて、川の新しい流れを作っていく。 「やあこんばんは正臣くん」 「……チワッス」 「っはは、どうしたの、この世に絶望しきったみたいな顔して」 「や、普通っすよ」 心配の皮を被ったその実ひどくたのしそーう、な、音楽めいた声色に、腹の中の溶岩が沸き立つようにふつふつと音を立てる。 だけどそれをじゅうと鎮火して、俺はお商売用、女の子にしか見せない特別性の笑いを作った。 外壁にして砦、守りはカンペキ。 それぐらい用心しておかないと、痛い目を見るのは自分だ。 「へえ普通普通、普通ねえ。最近の子はみんな何でも普通って言うよね。便利な言葉だ」 そっか普通か。ハハハ。 何が楽しいんだかわからないテンションで臨也さんが笑う。 そのうわべだけの笑い声に、胃の底が石を投げ込まれたようにぎゅっと重くなった。 ざあああああああ、ざああああああああああああ、ざあああああああ、ざああああああああああああ、俺はもう水の中にいるみたい。ほとんど何も聞こえない。 やおらぬるぬると、また肌の上に脂が浮いてきたような気持ちになって、気がついたらシャツの上から痛いぐらい腕を擦っていた。 「すんません、ちょっと野暮用あるんで、失礼します」 さっさと退散して一人でいたかった。 こんな最低最悪の気分の時に一緒にいたい相手ではない。 それどころか元気が有り余ってる時でも、この人と会うと生気が吸い取られるような気までするのに。軽く頭を下げて踵を返す。 「ちょっと待って」 だけど、その声で足が止まるのだ。 「腕、粉吹いてるよ」 その場にピン止めされたように動けないでいる俺の二の腕を、はっしと後ろから掴まれて、逆の手で無遠慮に触られる。 シャツを捲りあげて、知らないくせにさっき液体が落ちたところ、俺が特に洗って洗って洗い尽くした軌跡を、正確にたどっていく。 彼の触り方は肌の表面をじわじわと焼いていくような、粘っこいそれだった。 長くて関節の出っ張った大人の指が、しつこいほど、熱を煽るやり方で欲望を掻き立てるぎりぎりのラインをなぞる。 男の作り出す灼熱が肌の表面にこびりついた脂を燃やして、誰にも見えない炎が揺らめいた。 「うちに来なよ。薬を塗ってあげよう」 寒いせいでない鳥肌が、波のように立つ。 臨也さんは俺の返事を待たずに俺を追い抜いてすたすたと歩き出し、その軽やかなミュージカル俳優めいた足取りに、俺がついてこないという選択肢は含まれていない。 俺はきっとさんざ迷ったあげく、ハメルンのバイオリン弾きのねずみよろしくふらふらとついていって、本日二度目のいけない遊びに耽ることも、それが表面だけじゃなくて身体の芯に火をつけることも知っている。 優しくされたいだけの衝動が情動がこのつま先に鼠径部に内臓に瞼に詰まっていて燃料になる。 ざあああああああ、ざああああああああああああ、ざあ、ざ、ざざ、ざ、正臣くん、おいで、臨也さんが話すときだけクリアになる聴覚に気がついた時、びゅうと吹いた風に手が緩み、傘が飛んだ。 ざあああああああ、ざああああああああああああ、雨粒は身体を濡らすけど、触れられたところは火傷したように熱い。 本当なら火をつけてこの肌を濡らす水さえ焼き尽くしてほしいけど、この人はきっと種火だけくれてくすぶっただけの俺を放り出す。 全部全部わかっているのに、雨はこんな時だけ俺を助けてくれない。
(100225)
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